これまで、内面を探る時って、漠然と内側を意識していた様な氣がする。
何を持って内面なのかよくわからない様な面もあったし。
初期の頃は、身体の内部を内面だととらえていた様な氣がするけど、いつからから観念的な内面を探るような感じにシフトしていた様に思う。
心を探るとかそういう事なんだけど、それを体感的に内側として探っていたと。
でもそれって、自分のイメージにすぎなかったのかも知れないとふと思った。
すなわち、自分の想像したイメージを延々と探っていただけなのかもということ。
で、最近、肉体の内面が、まさに内面ということで良かったのではないかと思い始めた。
ただ、以前に身体の内面を探っていた時、内面の捉え方が、疑似視覚的に外側から身体の内側を見るような視点で内面を探っていたのだと氣がついた。
でもそれではだめなんだよね。
それだと、結局自分のイメージに過ぎないし、身体の体積に限定されてしまって、体の内部の空間だけに限定されてしまう。
そうではなく、体制感覚的に体の内面を探る必要があるということ。
その時に、すでにすべては一体であること、物質も波動だということ、内面を感じることで、宇宙を感じることができるということを、認識することで、体の内側がかなり広い様に感じられる事に氣がついた。
それを感じた事によって、以前は視覚的に体の内部を探ろうとしていたことに氣がついたという事なんだけど。
で、その感じ方で仙骨も感じてみると、そこには虚空が広がっていた。
そしてものすごいエネルギーも感じた。
エネルギーを感じることで、自然にわいてくるヴィジョンはそのまま観ていれば良さそう。
自分で作るイメージと、自然に湧いてくるヴィジョンとでは、出所が違うからね。
イメージもちゃんと使う事は大切なんだけど、神的な何かとつながる場合は、イメージも邪魔になると思う。
イメージは能動、ヴィジョンは受動だからね。
その辺の違いだろうね。
委ねる事が基本になるから、ヴィジョン優先という感じで。
それはさておき、体性感覚的に体の内面を感じることが、宇宙との一体感を思い出すことにつながるのだろうと思っている。
視覚的にやろうとする癖に氣付く事で、体性感覚的に捉え直せると思うので、なれるまで氣長にやるしかないだろうね。