仙骨はもう外す事はないとか言い切っていたけど、なんかまた変わりそう(笑)
やっぱり特定の部位っていうのをやめた方がいいって思った訳です。
それと、感じている世界は全て過去であるという事が再浮上してきているのも大きいかも。
身体の感覚も過去であるので、その一部である仙骨をはじめとする特定の部位に「いま」である、大いなる何かをリンクさせるのは間違っていると思ったという流れ。
どこでもない、すなわち、どこでもあるというのが正解なのではないだろうかと。
いまとは無であり、あまねく意識そのものであるし、それは空間的な何かでも無いのであろう。
それを特定の場所にリンクさせようとすること自体が、エゴなんじゃないのかな?
それと、身体というのは、神の感覚器官であって、創造器官ではないということも。
創造は神が行っているので、身体レベルの意識でどうこうすべきではないという事。
真の自己は神の意識そのものではあるのだけれども、目標だの意志だのというのはエゴレベルの意識なので、そのレベルの意識で創造しても、いまいちな結果になるのではないかという感じ。
だから委ねるってことなんだけど、そのあたりのバランスが、エゴよりになっていたのかな?と。
委ねるためには神への絶対的な信頼が必要なので、なかなかそれができないというのもある。
どうしたって、エゴレベルの目標とか願望って出てくるからね。
それとどのように付き合っていくかということか。
完全に丸投げできれば、良いことしか起きないという理屈はわかっていても、感情的について行けないし、意志の放棄なんて、エゴが拒絶しまくるし。
その折り合いをつけられるかどうかですわな。
それにともなって、ヒーリングの感覚も変化してきている。
氣を送ることすらエゴだという認識に変化してきてしまった。
身体は神の感覚器官であるということは、ヒーリング時は氣の状態を感じることが身体の役割であるということ。
ヒーリング自体は神が行うという感覚ですね。
邪氣だらけの人の氣を感じるだけでも、相当な負担だし、悪影響を受けるので、ヒーリングで相手の氣を感じるだけだから楽ということではないよ。
むしろ感じる事に特化することで、氣を送っていた時よりきついこともある。
氣を送ることで、感じることを少なくできていたからね。
でも、感じきることで、対象の人の状態が神に伝わり、調整が起きる。
それがヒーリングなのだろうと、認識が変化した次第です。
エゴレベルの意識で氣を送ろうとしていたことが傲慢だったのかも知れないね。
内側というのもこの世界の内側という事であって、空間的な身体の内側では無いということも、再認識。
ちょっと前に、変わったばっかりだったけど、戻ったわ(笑)