自分の内側と外側は同じという表現をよく見ますが、最近の体感だと、自分の内側と外側のには境界が無いという表現の方がニュアンスが近い様な氣がしています。
いまここは全てであり、時空全体を一体としてエネルギーが満ちている様な感じで、そこに自分がどっぷり浸かっている体感はこれまでもずっとありましたけど、無意識で皮膚とかオーラを境界として、自分の内側と外側に境界を生じさせていたと氣がつきました。
境界を生じさせているということは、分離させているという事ですよね。
全ては一体と言いながら、無意識で分離させていたという事。
全てであるエネルギーにどっぷりと浸かっているなら触れているのから繋がっているし一体だろうという感覚だったのだと思います。
しかし、触れているだけでは一体じゃないですよね。。
知識として、物質は隙間だらけだから、その隙間にもエネルギーみ満ちているという事は知っていたし、それをソース(源)と絡めて説明までしているにも関わらず、体感的に分かっていなかった感じで。
身体そのものも物理的にも隙間だらけであり、隙間の方が圧倒的に大きいという認識を踏まえて、時空を満たすエネルギーにどっぷりと浸かっているという事を意識したら、体感が大幅に変化しました。
それが、境界がないという体感です。
物質はエネルギーの海のさざ波の様なものなんだから、境界なんて無いに決まっているのに、体感に繋がってなかったんですよね。
それがエゴの巧妙な抵抗なんでしょうかね。
先に述べた、自分の内側と外側は同じという表現も、実は分離を隠している。
同じと言いながら無意識レベルの体感としては内側と外側を別のものと感じていると思う。
内側と外側に境界がないという認識を踏まえたら、「同じ」という言葉のニュアンスが、内側と外側に境界がないというニュアンスに近くなるけど、分離の観点でその表現を使うと、分離の体感になるのだろうね。
物質的な身体は、境界っていや境界には違いないのだろうけど、隙間が圧倒的に大きいから、境界にならないという様な体感ね。
変な例えだけど、網戸が付いていれば、それは家の外と内の境界になり得ますけど、その網の目が1メートルだったら?
虫どころか人すら通れるから、網戸の体を為してない。
物質の隙間って、それどころの騒ぎじゃないほど大きいから、境界になってないんですよね。
移動すれば、エネルギーが身体の中をほとんど抵抗無く通り過ぎていくレベルで。
実際には高エネルギーに生じているさざ波だから、その例えも適切ではないのだけど、イメージはしやすいので。
その認識になった途端、もう自分の内側まで高エネルギーに満ちているので、とても心地良い。
チャクラから縁ルギーを取り込むとか、そういう問題じゃない。
チャクラから取り込むという認識の時点で、内側と外側に分離してんだよね。
取り込まなくても、最初から満ちてるんだと氣付いた訳です。
既に在るっていうのも、こういう観点なんだろうね。
そもそも取り込むって言うことは、エネルギーが無いって思っているという事。
満ちているなら、取り込む必要は無い訳です。
この世界の面白いのは、氣付いた瞬間に変化すること。
ただし、これは知識からでは到達できない。
体感だからね。
氣付きとか悟りという表現になっているのは、そういう事なんだろうなと。
始めからそうであったと氣付くだけで良かった。
でも、あくまでもこれは私の認識なだけであって、真実なのかどうかは分かりませんよ(笑)
だから、参考程度にしてくださいね。
まだ氣付いてないこと沢山あるし、もっと深遠な氣付きはやってくると思うし、その時、この内容も幼稚に感じる事もあるだろうし。
単に、境界が無いってごく当たり前の事を納得出来ただけに過ぎない。
氣が付きゃ、氣功歴31年にもなっているのに、この程度っていうのは、決して褒められた物ではないし(笑)
氣のコントロールの訓練をずっと続けてきて、ここ1年はコントロールを止める事に取り組んでいるという。
散々訓練してきたことの真逆ですからね。
委ねる事と、氣のコントロールは相容れないからさ。
委ねる為には氣のコントロールを止める必要があるので。
氣を感じる練習だけで良かったなぁと、今更なが思ってしまう(笑)
氣の鍛錬は、エゴの増大に繋がるからね。
とは言え、そういう道を進んできたからこそ、今の氣付きがあるので、無駄では無かったとは思ってますよ。
コントロールできるけどしないっていうのと、コントロールできないのとでは、かなり差があるし。
長い間訓練してきたからこそ、これはもういいって思えたってのもあるしね。
そうじゃないと、氣をコントロールしたら上手くいくかも!とかいう想いがでるだろうしさ。