スピリチュアル的な事を学び始めると湧いてくる疑問
心はどこにあるのかという疑問はスピリチュアル的な方面を学び始めるとよく湧いてくる疑問です。
学び始めるまでは、ほとんど疑問にも思わない事でしょう。
普通に考えれば心は脳にあると認識するのが当然ですからね。
心の定義について
一口に心と言っても、人によって定義は様々です。
それで話が噛み合わなくなることもしばしばですね。
ここでは精神活動の事を心という風に定義したいと思います。
英語でいうところのマインドですね。
ハートではなく。
マインドとハートを精神と心という風に分類すると、心の定義はまた変わってきます。
精神は思考で、心は感情という定義になってくるでしょうし、スピリチュアル的な方面の人だと、心はもっと別の意味合いを持つ言葉になる事が多い。
ただ、一般的に「心はどこにあるのか」という疑問を持った人が、心という言葉で表現しているのは、精神活動の事だと思われるので、ここでは心は精神活動の事だという意味で話を進めます。
そしてそれは自我の事でもありますね。
解剖生理学的には心は脳にある
解剖生理学的に捉えれば、心は脳にあると言えますし、実際に思考や感情等の精神活動が起きている時は、脳の対応部位が活動していることも分かっていますよね。
ですから、心は脳にあると考えるのが自然ではあると思うのですが、一筋縄ではいかないという面もあります。
心は感情思考形態の活動であるという考え方
心は精神を司るエネルギー体である感情思考形態の活動だという考え方があります。
精神活動は感情思考形態で行われていて、脳はその活動を受信しているという認識ですね。
この認識の場合、心は脳にある訳では無いという事になります。
心は感情思考形態の活動だとして、そのエネルギー体が身体とリンクする部位はどこなのか?という疑問はあるかと思います。
その場所を心臓と認識する人は古代から多かったと思います。
それで、心は心臓にある様な感覚を持つ人が多いのかも知れませんね。
心の中に身体がある感じ
でも、エネルギー体は身体の外側まで拡がっていて、エネルギー体の中に身体がある様な感じですから、身体のどこかに心があるというより、心の中に身体があるという感覚の方が近いかも知れません。
自我と魂について
自我は心そのものの事では無いにしても、心は自我の活動の事になるかと思います。
感情思考形態が自我であるという感じであり、その活動が心という事ですから。
自我を生じさせている感情思考形態のことを魂と思っている人は多いような氣はしますが、それは魂ではありません。
死んだ後、地縛霊になる残留思念体の元が自我を生じさせている感情思考形態ですが、これは魂とはまた別のものですからね。
自我を生じさせていると表現しましたが、思考と感情のエネルギーの塊によって自我が形成されていますから、感情思考形態は自我そのものと言えるかも知れません。
思考の塊に感情のエネルギーが結びついてひとつの人格を形成しています。
パソコンでいうOSみたいなものです。
生まれ育った環境によって、刷り込まれた思考パターンと、それに基づく感情が結びついて、自我プログラムを生み出しています。
思考パターンとは、「~とはこういうことだ」「こういう場合はこうする」「~が好き」「~が嫌い」という様なひとつひとつは小さな思考が、膨大に積み重ねられてプログラムのように形成されたものです。
この感情思考形態は、死の間際に近くを妊婦さんが通りすがったりした時に、胎児に憑依する事もあるかと思います。
一般的な前世の記憶の証拠の話にでてくるのは、転生というより、憑依でしょうね。
憑依する対象が無く、思い残した事が強い場合は、残留思念体がしばらく継続しますから、それがいわゆる地縛霊という事かと思います。
それは先にも述べました様に魂とは別のものです。
魂は、個別化した神の意識からなるエネルギー体ですから、自我である感情思考形態とは違います。
悟りの意識は魂の意識です。
心という言葉がややこしくなるのは、この悟りの意識の事を心と定義している人がスピリチュアル系の人に多いというのがあります。
つまり魂の活動が心であり、自我とは別のものだという認識です。
でも、自我にも魂の影響はでていますから、自我の心も、全く魂と関係が無い訳ではありませんし、心を感情や情動の事と定義していると、自我のうち心は魂からのメッセージであるという解釈も成り立つのです。
ただこれらのことは、言葉の定義の問題でもあるので、心という言葉で何を表現しているのかという事をくみ取りながら理解してください。
同じ「心」という言葉を使っていても、示している対象が違っている事は本当に多いですからね。
自我が悪いものという事では無い
話を自我の事に戻します。
決して、自我は悪いものという事ではありません。
自我を自分と思い込んでいるから不具合が起きるだけです。
真の自分は個別化した神である魂だということを理解し、「魂である私が自我を使う」のが人間の本質になります。
自我だけで生きているのであれば、その自我はコンピューターに思考パターンをコピーすればそれで移植できてしまいます。
仮想のキャラと対話できる様なゲームがありますが、そのキャラと大差ないのです。
人である必要がありません。
魂があるからこその人ですからね。
心はどこにあるのか?という当初の話題から大きく話はそれている様な氣もしますが、心の定義がどうであれ、身体のどこかに心があるということではなく、体感的には心の中に身体があるという事は言えるのではないでしょうか。