これまでって、精々身体の体積程度の範囲で源(ソース)と繋がっていて、そこからエネルギーが湧き出していたイメージだった。
それが果てしなく広大な源(ソース)の海にどっぷり浸かっているイメージに変化した訳です。
それを考えるとこれまでの制限の酷さが良く分かる。
そんな状態でも、宇宙と直結した!内側からエネルギーが溢れ出してきて凄い!とか喜んでいたんだよなぁ。。
じゃあ、身体全体ですら無く、特定の部位に限定していた時や、源(ソース)という概念すら知らなかった時って、どんだけカスだったんだろうかと。
案外、源(ソース)の概念を知らなかった時は逆に源(ソース)に対する制限が無くって普通に繋がっていた可能性もあるけど。
宇宙もちゃんと意識してたしさ。
まあ、無自覚で繋がっていたのと、今のように自覚して繋がっているのとでは全くレベルが違うのだけど、天然で繋がっていた時って何も分かって無いけど、色々上手く流れてたなぁとか思ったり。
繋がりを断ってしまってから、今に至るまでの期間はエネルギー的に結構しんどかったのは確か。
今年の春から秋にかけては身体もボロボロだったしな。
でもこれも私の様な理屈で生きている人間が、気付きを得る為には必要なことだったのだろうね。
気の感覚が分かる理屈こきって、ほんま厄介だと自分でも思う(笑)
なまじ理屈で気を動かして色々現実に干渉できてしまうから、世界に対する支配欲が余計に強化されるよね。
それでも本人的には委ねているつもりだったんですよ。
いまから思えば全然委ねているうちに入らないんだけどね。
エゴ視点で色々考えたり委ねようとしている時点で委ねてないんだよなあと気づいた訳です。
委ねるというのはエゴを主から外すことだからね。
委ねようとすることすら止めることが必要なんだよね。
そこになかなか思い至らなかった。
ふと気づけば、始めから生まれる前から自分はそこにいた。
それを求めていたから気づけなかった。
始めからそうで在るものになろうとしても為る事はできないですもんね。
思い出すだけだ。
ど忘れした事を思い出そうと一所懸命記憶を辿っている時は思い出せないけど、もういいやって思って他のことをしていたら、不意に思い出す事って多いですよね。
なんかそれに似た感じがする。
気功を始める以前から、ずっと色々探求し続けてきたけど、もういいやってなって探求をやめて、いまに在ることだけ意識していたら、どんどん気付きがやってきている。
結局、探求しているのはエゴの作業なんだよね。
そりゃうまくいくはずがない。
真理は考えて到達するもんじゃないんだよな。
体感したり思い出すもの。
「何をするかではなく、どう在るか」という事が本当に大切なんだと改めて認識しました。