言葉から真理に至ることはできない
言葉から真理に至ろうとしたり、逆に、言葉を知っただけで、真理を理解したつもりになったりする人が一定数います。
でも、それは危険なことです。
言葉は事実ではないからです。
当たり前の事なのですが、それがピンとこない人が多い様な氣がします。
海の例え話
海を見たことが無い人に対して海の事を言葉で説明したとします。
その説明を聞いた人が海を知った氣になったとしても、海を本当に理解しているかといえばそんなことはありません。
言葉だけで海を想像することすら無理だと思います。
でも実際に海を見たことが無くても、海の説明の言葉を覚えていれば海について説明することすら出来てしまいます。
海を見たことが無いのに海について説明している人が、実際に海を見る機会があれば「思ってたのと違う」と驚くかも知れません。
もしかしたら海を見てもそれが海だと認識できないかも知れません。
言葉だけで知っているつもりになるというのはそういうことです。
海の様に分かりやすい例だと、そりゃそうだと納得できるでしょうが、世間的にはこういうこと多いです。
言葉での説明が悪い訳ではない
だからと言って、言葉での説明が悪いという事ではありません。
先の例え話で言えば、海を見たこと無い人が初めて海を見た時、「ああこれが海なんだ」と理解出来る可能性が高まりますし、言葉すらしらなければ、それが何か分からないでしょうから。
大事な事は、受け止め方なのです。
言葉を知っただけで、知ったつもりになるか、言葉は事実では無いことを分かっていて、その上で、言葉で何を伝えようとしているのかを常に理解しようと心がけているかによって、現実に対する認識が全然違ってきます。
真理に限ったことではない
これは真理に限ったことではなく、日常の体験にも言える事です。
体験を言葉で代用することはできません。
体験談を読むのと実際に体験するのとでは全く違います。
当たり前なんですが、体験談を読んだだけで体験した氣になっている様な人が案外多いのも事実です。
ある人が観ている景色を言葉で説明されて、それを元に同じ景色をイメージすることすら不可能です。
これは言葉に限らず音声付きの映像を見ても全てを再現するのは不可能です。
その現場にいても、人によって観ている景色の見え方は違いますからね。
言葉だけでは体験に置き換えることなど、到底不可能です。
経典から真理に至ることはできないが、真理に至った時に経典が解る
著名な宗教指導者でバグワン・シュリ・ラジニーシという故人がいます。
その方の言葉で印象に残っているものがあります。
この方は、色々問題も起こしているので全面的に信用している訳では無いのですが、感銘を受けた言葉もあるので、是々非々で受けとめている方です。
その方の言葉に「経典から真理に至ることはできないが、真理に至った時に経典が解る」という様な内容のものがありました。
経典は真理を何とか言葉で説明しようとしている文章にすぎない訳です。
その説明から真理を知ることなど不可能です。
体験したことが何だったのかを振り返る時に、経典がが役に立つということであって、経典から真理に至ることは出来ないということです。
真理は言葉で説明すると多くの矛盾を含んでいます。
その為、経典によって書いてあることがバラバラで、それが原因で戦争すら起きる。
でも真理に至って経典をみたら、すべて間違っていなかったという様なことがあるのです。
言葉は不完全なものなので、それが完全に真理を表現することはあり得ません。
ですから、真理を述べた言葉を正しいということはできませんが、間違っては無いということは出来ると思います。
そこが理解出来ていないと、真理の探究の為に、様々な文献を読みまくり、知識だけは豊富なスピ系の事典みたいな人が出来上がります。
如何にも真理を分かっている様な言葉を話し多くの人を指導してたりしますが、真理は理解できていないということも多々あります。
言葉を記憶しているだけなんですよね。
なのに本人は自信たっぷりに自分は真理に到達していると勘違いしている。
そしてそういう人達って妙に自信が有るから、多くの人が騙されてしまう。
なんなら、当の本人は騙しているつもりは無く本氣で正しい事をしていると思っていることも多い。
しかも善意から行っていたりするから余計にたちが悪い。
それはさておき、「真理が月とすれは、経典は月をさす指である」という言葉があります。
指の違いを捉えて、自分の指が正しいのだ!と主張したところで真理には至れません。
違いや矛盾を包括する何かだと理解し、経典を超えたところに何かがあります。
知らないよりは知っていた方が良いが、知らない方が良い場合もある
解説は知らないより、知っていて方が良いとは思います。
でも、解説を記憶しただけで理解したつもりになるくらいなら、知らない方が良いこともあるかも知れません。
予備知識が、せっかくの体験を矮小化させてしまうこともありますから。
その辺は、受け止め方次第なのでしょう。
信じず疑わずというニュートラルな姿勢が丁度良いかも知れません。
体験に関する注意点
ただ体験に関しても注意が必要なことはあります。
自分が体験した事だけが全てではないということです。
再び海の例で例え話
北極圏に住んでいる人の海のイメージと赤道付近に住んでいる人の海のイメージは違いますよね。
これだけ情報が発達していますから、海には様々な側面があることは知っていても、自分の持つ海に対するイメージは実際に行ったことがある身近な海のイメージになります。
北極圏と赤道付近の例は極端すぎますが、日本に住んでいる人で、日本海側と太平洋側の人では海という言葉で思い出すイメージは違います。
お互いの話は矛盾しているが、どちらも間違ってはいないかも知れない
そういう人どうしで海の話をしていると、微妙に話がずれているということも起きるでしょう。
同じひとつの海なのに場所によって全然違いますから、自分の体験だけで海の全てを知った氣になるのは間違いであるということです。
北極圏に住んでいる人にとっては、海水は冷たいですが、赤道付近に住んでいる人にとっては海水は温かいですよね。
情報伝達手段が発達していない時代であれば、北極圏の人にとっては、海の水は冷たい事だけが事実で、海水が温かいという事など、事実に反する訳です。
赤道付近に住む人に取っては、海水が冷たいなんて戯言にしか思えなかったでしょう。
現代人であれば、海水は場所や季節によって温度が異なる事が分かっていますから、どちらも間違いじゃ無いけど、不完全な認識で在る事が理解できます。
北極圏も赤道付近も同じ1つの海の一部ですからね。
どちらも間違ってないけど、不完全という事は沢山ある
真理に限らず世の中には、その様な事が沢山あります。
同じ出来事を体験しているのに、お互いの体験が全く違っていたけど、どちらも本当のことだったということはあり得ます。
同じ事象も、体験する人の受け止め方や体験する場所によって違ってくるのは当たり前なのですが、案外、その当たり前のことを見落としている人は多いかも知れません。
お互いが相反する考え方をしていると、どちらかが正しいとすれば、相手は間違っているという判断になりがちですが、どちらも間違ってないけど、不完全であるという可能性に対してもオープンになっておいてください。
「海という言葉は、海そのものではないし、自分が体験した海が、海の全てではない」という事なのだと思います。