「いまここ」に在る事は大切なんだけど、「いまここ」という言葉そのものにとらわれ過ぎていた為に「いまここ」を理解できていなかったのかも知れない。
「いまここ」という言葉そのものにとらわれてしまったが故に、もの凄く狭い範囲に意識が限定されていた事に氣がついた。
以前はもっと意識に拡がりがあったのに、知らないうちに狭くなっていた氣がする。
言語から誘発される感覚で「いまここ」が集中された一点の様なものを無意識でイメージしていた様だ。
その原因として、遠くに見えるものは過去の映像であるという概念が大きい。
昼間に見える太陽の姿は8分前の姿だとか、そういう感じの事で。
それは確かに事実ではあるのだけど、それと「いまここ」は関連付けるべきじゃなかった。
関連付けてしまうと、「いまここ」は身体の内部の一点をイメージせざるを得なくなる。
それで、やれ脳幹だ、心臓だ、仙骨だという混乱をも招いていたのだろう。
でも、そうじゃなかった。
むしろ全ての方向を遙か彼方まで一体として感じる様な体感の時に感じる感覚が「いまここ」っぽい。
そしてその全体が自分であり世界であり、宇宙であるという事。
結局のところ、空間や時間は幻想なのだけど、その幻想全体を生じさせている何か(それは全てでもある)を体感するのが「いまここ」という言葉で表現されるものなのかも知れない。
無意識レベルの思い込みって、ほんとに怖いね。
それが思い込みである事に氣付けないのだもの。
遙か彼方に意識を向けるのではなく、遙か彼方を感じる意識が重要だし。
この点も重要なんだよね。
油断すると遠くに意識を向ける感じになっているもの。
意識の向きが真逆だからなぁ。。