結構、衝撃的な感じです。
20歳過ぎの頃から、ずっと感謝が最高と思ってたからね。。
疑いすらしていなかった。
なぜ、そう思うことになったかと言えば、感謝って、自分が何らかの利益を得た事に対して感じる利己的な氣持ちだよなと氣が付いたから。
神への感謝にしても、自分が生かされているという利益に対する氣持ちですもんね。
別に利己的な事が悪いとは思わないけど、なんか衝撃的だった。
祝福には利己的な要素が無い。
完全に利他的な氣持ちだし、それは神の視点からの氣持ちでもある様な氣もする。
神様の奇跡とは神の祝福なんじゃなかろうかと。
なんだかんだ感謝って日常的に感じるけど、祝福って特別な時にしか感じてないという事も、結構、驚きの事実だった。
「ありがとう」はしょっちゅう言ったり聞いたりするけど、「おめでとう」って普段は言わないし聞かないしね。
正月とかが独特の特別な雰囲気になるのは、世の中が「おめでとう」の言葉で溢れる事も一因かも知れない。
まあ正月の「おめでとう」は、祝福とは若干毛色が異なるけどさ。
それでも御祝いムードには違いないし、その雰囲気はやっぱり素晴らしい。
それを認識して、改めて思うと、その氣になれば、祝福する事はたくさんあるんだよなぁとも氣が付いた。
特別な出来事なんて無くっても、日常のささやかな幸福を祝福すればいいのだよね。
他者に対してだけじゃなく、自分にも「おめでとう!」ってやれば良いし。
当然、他者の幸福な出来事も祝福する。
他者も結局は自分なので、他者を祝福することは、自分を祝福することにつながり、それが自分の人生を向上させるし。
自分の与えたものが自分に返ってきますからね。
他者を祝福すれば、自分も祝福される訳です。
即ち祝福される状況がやってくる。
こうなってくると、「ありがとう」を唱えるより「おめでとう」を唱えた方が遙かに効果も高そうな氣もするよね。
神様の奇跡と組合わせるなら、「神様の奇跡が起きた、おめでとう!」ってアファにすると、かなり良さげ。
これは、みんな(自分も含む)に神様の奇跡が起きた事を祝福する文章だからね。
自分の願望とか超越しちゃってる。
祝福を認識しだすと、自分の願望ばかり叶えたがる氣持ちって、利己的で小さいなぁって思ってしまう。
繰り返しになりますが、他者に対して行う事は、自分に対して行う事と同義だからね。
だから、それは自分の人生にとってもとてもプラスになる訳です。
それはさておき、今日は、もの凄いターニングポイントになるかもな。
かなりウェブサイトの記事を書き換えないといけないね(笑)
まずは、「おめでとう」を唱えるのを推奨する事に変えないとね。
実証はしとらんが、「ありがとう」を唱える事と同等以上なのは確定だから、特に問題はないだろう。