以前、背後は時の比喩という表現を使っていた事を思い出した。
その後は、空間認識の修正に背後を意識するだけにしてしまっていたけど、やっぱりそれとは別に背後を意識する事が必要かも知れない。
肉体内部から自分をどかせることをやっているけど、それを意識しつつ背後を意識したら、ものっすごい広大な何かを感じた。
広大という表現も本当は違う。
広大だと、それは空間だからね。
時の比喩としての背後だから、悠久のいまとか、久遠とかそんな感じの方が近いか。
時の比喩としての背後と、空間認識での背後は別のものなんだけど、ずっとやっていると、空間認識での背後にすり替わっていくんだろうね。
それで、いつのまにか時の比喩としての背後を忘れていくということ。
時の比喩としての背後を把握すると、現実世界と背後で繋がっている体感も簡単に出る。
もちろん元から全てと繋がっているのだけど、なかなか体感というのは出にくいので、背後経由で繋がっている体感が出るのは楽。
認識している現実は過去であるので、背後の悠久のいまを重ねて感じる感覚は興味深い。
一旦、背後の感覚を掴めば、前方にも背後の感覚がある事が分かる。
そして背後が内側でもある。
言葉にすると意味不明だけど、背後の感覚が理解出来ると、言いたいことが分かると思う。
この感覚は、以前、当たり前に感じていたのだけど、どうしても理屈で解釈しようとしてしまい、いつの間にか消えてしまうということを繰り返してきた。
背後の感覚自体は、始めに気が付いたのって、2002年頃だからなぁ。
あれから18年近く経つ。
いまから思うと、背後を自我で支配しようとする癖がなかなか抜けなかったのだろうね。
委ねるといいつつ、背後をコントロールしようとしてしまう。
背後を意識しや瞬間は、帆の津に凄いと感じるのに、干渉しようとして矮小化してしまうということ。
そうではなく、自我を背後で溶かしてゆく感じにしようと思う。
ベクトルが逆だったんだ。
背後の感覚は目新しくもないけど、自我を背後で溶かしてゆく感じは初めてなので、どうなるか興味深い。