神の座は仙骨で正解の様です。
正確に言えば、神の座という言葉は若干違う様な気はしますけど、要するに神の波動と繋がる場所という感じ。
神の波動と繋がる場所というのもニュアンスが違う様な気もするけど、まあだいたいそういう様な意味という事で。
その認識で過ごしていますが、まただいぶ感覚が変化してきました。
仙骨で神の波動を受け、それを頭を経由して心臓から開放するという考えそのものがエゴの抵抗である事に気が付きました。
エゴが神の波動をコントロールしようとしているという事ですからね。
これは気が付くまで、エゴの手口だと分からなかった。
気持ち的には、神に身体を明け渡すという感覚が必要だなぁと感じました。
そう感じた瞬間に、凄い勢いで神の波動が流れ込んできたのは驚きましたけど(笑)
それまでエゴがもの凄い抵抗をしていたという事。
神に身体を明け渡す感覚になって初めて、本当の委ねるってこういう事かと思ったり。
身体の内部は天地自然そもののはずだったのに、思い切りエゴが支配してましたよ、はい(笑)
身体の内部は天地自然そのものという概念によって、神に委ねる事から目をそらせていたというかね。
本来、身体の内部は天地自然そのものなんですよ。
だからその概念自体は間違ってはいない。
ところが、身体の内部には、エゴの想念のエネルギーが溜まっていたという事を無視してしまっていた。
かなりクリアになっていたと思ってたけどそうでもなかったという。
これは、神に身体を明け渡す感覚になって、エゴの想念の抵抗にやっと気が付いた感じ。
神は現実世界そのものでもあるので、神に身体を明け渡すことで、今回初めて、自分が現実世界そものになれた気がした。
これまでの一体感は似非の一体感だった(笑)
本来、身体も神で出来ているのだから、神に明け渡すもくそもないんだけど、エゴの想念が身体を満たしているので、神そのものに比べて若干神の比率が落ちているという感じか。
まあ、エゴだって神の一部なんだけど、余計は想念のエネルギーが身体にあるので歪みが出るのかな?と。
現実化というのも、認識が全然違うことも分かった気がする。
既に現実世界は完璧なんだよなと。
単にエゴが邪魔をすることで、自分が現実世界に同調できてなかっただけ。
だから上手くいったり上手くいかなかったりというランダムな現実を体験してしまうという事。
意識的に現実化を行うのではなく、完璧な現実に自分を同化させるというのがニュアンス的に近い気がしますね。