邪悪さを拒絶しないこと
善良であろうとして、自分の邪悪さを受け入れずに無視していると、内面に邪悪な想いが渦巻くようになります。
そして、その邪念が世界に投影されて、邪念の毒氣に当てられた人達が犯罪者になるということも起きています。
自分自身の邪悪さを受け入れる人が増える事で、善良さと邪悪さが上手く調和し、それによって善良でも邪悪でもない、新しい状態に移行します。
すべての人間が、その様な状態になった時、犯罪という象徴が必要なくなり消えていくのであって、邪悪さの拒絶ばかりしている現状では、それらが無くなることは無さそうです。
だからと言って、犯罪を野放しにしろ言うことではありません。
犯罪に対する罰は与えるべきです。
拒絶している邪悪さが世界に投影され、犯罪の一因になる
ただ、それはそれとして、世界全体を見渡したとき、犯罪の一因に、私達自身が目をそらしている自分の内面にある邪悪さの念があると言うことは理解しておく必要があります。
邪悪さも人間の自然な性質ですからね。
善良も邪悪も人が勝手に作った価値基準
と言うより、そもそも邪悪さという価値判断は人間が勝手に作った価値観です。
人間の自然な性質の内のある部分を邪悪と決めつけ、それを拒絶しているというのが真相でしょう。
自然な性質を邪悪なことだと教え込まれ、それを拒絶することで、善良な人間であろうとすることで、無視された邪念が大きな力を持ち、それが世界に投影されているということです。
非常に多くの人達がそれを行っているので、世界に邪念の集合体ができていますから、その影響を多大に受ける人達が生まれるのも必然です。
自分は善人だから、邪悪さなんて無いって言う人は、もっと自分と向き合って下さい。
先にも述べた様に、邪悪さなどという価値判断は人工的な価値判断であり、本来、善良も邪悪も無いのです。
ですから、世間的に邪悪とされる想いも人間の自然な性質であることを受け入れる必要があります。
邪悪さとされる性質を受け入れつつ、社会的には駄目とされる行動をしなければ良いだけの事であって、想う事すら駄目だなんて、無茶振りするから、世の中がこんな事になっているのです。
繰り返しになりますが、邪悪な事を想うのは構わないのです。
行動に起こさなければ良いだけなんですよ。
邪悪さを受け入れることで力が増す
自分の邪悪さを自然な性質であるとして受け入れることで、力が増してきます。
善良さだけでは半分ですからね。
自分の本来の力を取り戻す訳です。
別に邪悪さが力という事ではないですよ。
ただでさえ力が半減しているのに、更に邪悪さを抑え込む事にも力を削がれていたので、善良だけだと弱かったということです。
邪悪さを押さえ込む力も必要では無くなり、また、本来の残りの半分の力も加えられるから、力が増すのです。
それによって、善良さと邪悪さのバランスが取れるので、人間本来の在り方になっていく訳です。
邪念ばかりの人をどうするか
邪悪なばかりの人は、世界の邪念の毒氣に当てられていて、善良さと邪悪さのバランスが極端に邪悪に傾いた人なので、余分な邪悪さを取り除かないとどうにもならないと思います。
善良さが多量の邪念に隠れてしまっている状態です。
おそらく刑罰や教育だけではどうにもならないから、邪念を浄化する様なヒーリング系の対処をする必要があるでしょう。
状態によってはヒーリングも長期必要だと思われます。
でも現実的にはその様なことは行われませんから、出所しても、すぐにまた犯罪を犯す人が多いという事なのだと思います。
犯罪者とそうでない人の差は紙一重
そういう邪悪さの事が理解できれば、犯罪に走る人を減らす為に、自分自身の邪悪さを受け入れることが必要である事が分かってくるでしょう。
それは自分が犯罪被害者になるリスクも減らす事にも繋がります。
犯罪者とそうでない人の差なんて紙一重ですしね。
自分は絶対に犯罪者なんてならない!とか安易に思い込んでいる人の方が危ないです。
過去の人生のボタンをひとつ掛け違えていたら、今、自分が犯罪者になっていたかも知れないですし、自分が邪悪さの拒絶をしている事によって起きる、集合的精神への邪念の蓄積が犯罪者を生み出しているのだという観点は必要です。
邪悪さを受けれ、バランスが取れることで、まったく違う在り方になる
その上で、自分が犯罪者にならない為にはどうするか、ということですし、更なる高みに上る為にも、1人1人が自分の邪悪さを受け入れる必要があるのです。
善良でもあり、邪悪でもあり、そのどちらでもない
そして、善良さと邪悪さが上手くバランスを取れると、まったくこれまでとは全く違う在り方になります。
それは「善良でもあり、邪悪でもあり、そのどちらでもない」在り方です。
それは、悟りに近い在り方ですが、いきなりそこまでいかないまでも、ある程度、バランスが取れてくれば魅力有る人格になっていきます。