神に身体を明け渡すって結構は決意で思った事だったのに、それさえも実は分離を強化する考えだったという事に気が付いた。
うわぁって感じ。
神に明け渡す事に対してエゴが抵抗していたのも、実は抵抗するフリをして、それがエゴを無力化するための重要な方法だと錯覚させる為だったのかも知れないね。
神に明け渡す事に取り組んでいる間はエゴは安泰な訳ですな。
すっかり騙されていたぜ(笑)
全ては神で出来ているのだから、神に明け渡すも何もない。
始めから神と繋がっていたのだから。
繋がるというのも語弊がありますよね。
神そのものなんだし。
同様にどこそこが神の座というのもおかしい話だったという事ですね。
全部神なんだから、どこそこが神の座という認識そのものが間違っていると気が付いた。
ある意味では、身体全体が神の座という表現もできなくはないけど、それ自体、宇宙と身体を分離して捉えている感じもするからね。
ウチュと繋がるとか、天地自然と繋がるとかいうのも、間違いなんだと。
最初から一体なんだから、繋がるもへったくれも無い。
元から繋がっていたと気付くだけの事だった。
でもあれですよね、元から繋がっていてもの凄いエネルギーに満ちているのに、それに気付けないんですよ(笑)
実際、昨秋とか、エネルギーが枯渇しかかっていて、危険な領域まできてたくらいだったし。
元から繋がっているのに、繋がってないと思い込んでいるから、わざわざ自分で壁を作ってエネルギーの流れを制限していたってことだよなぁ。
遮断するのにもエネルギーを消費してさ。
気付くことで、そういった抵抗を止めることができる。
抵抗をやめた途端、エネルギーに満ちていたことに気付く。
枯渇なんてしてなかったってことだよなぁ。
でも当時の私にとっては、死活問題なくらいしんどかったんですよ。
それ自体幻想だったという事か。
でも幻想でも死ぬ事あるからなぁ。
それはさておき、既にそうであるものになろうとして、わざわざそうではない状態を作り出して、元の状態になろうとしていたという事。
ところが、先にも述べた様に、成ろうとするという事そものが、そうではない状態が前提だから、いつまでたってもそうはなれないという事なのだろう。
でもこれって、体感しないと多分理解できないと思う。
私自身、言葉としてはこれまでも知っていたし、全ては神で出来ていると頭では思っていたのに、繋がろうとしてましたからね。
分かって無かったって事だもの。
始めから神と一体であると気付いた今から振り返れば、神の座がどこなのか探求していて、その時々に違う場所をここだ!って思って、その瞬間は気が一気に高まったりした理由も理解はできます。
すべてで繋がっているのだから、身体のどこで繋がる設定にしても、少しは繋がれるんだよね。
神と繋がっていないと錯覚している状態で、ほんの少しでも神と繋がったと感じれば、気が高まるのは当然でした。
だから、そのたび、ここが正解に違いない!って思う訳だ(笑)
繋がる場所を複数にしたこともあったよな。
1K所より3カ所で繋がれば流れるエネルギー量は増える。
でもさ、全体で繋がっている事に比べれば、3カ所での繋がりなんて誤差の範囲ですよね。
神の座が、脳幹というのも間違いじゃ無いし、第三脳室というのも間違いじゃ無いし、頭頂、心臓、仙骨、へそ、等々、全部間違いじゃないんでしょう。
でも正しくも無いという。
全ての場所で繋がっているのだから。
そして繋がっているという表現そのものも正確じゃ無いというのは先に述べた通りです。
だって神そのものですからね。
気付いた瞬間、え?あれ?何じゃそりゃって感じで、気付けないんもんだなぁって笑ってしまった(笑)