第三脳室という認識だったけど、心臓の方が自然な気がしてきました。
古来から、その様に言われてることが多いですしね。
「いまここ」の意識を合わせるのも心臓の方がやりやすそうな感じもしてきた。
やっぱ脳にとらわれ過ぎているんだなぁと改めて思った。
それもエゴの抵抗か。
エゴの座である大脳の前頭前野近くに意識させておくことで、エゴが維持出来る様にしていたのかも知れない。
本当の場所に意識を置かれると、エゴが完全に弱体化しますからね。
というか、これって秋頃に神の代わりに魂の座の話でやっていた事の繰り返しだよね。
心臓が主で脳が従って確か書いてた様な。
そうなると、あの当時の認識も当たらずとも遠からずだったのだろうかね。
魂を個別化した神という表現もしていたしな。
個別化した神という認識が、今回取っ払われた訳ですけどね。
神は神であるという事。
それにしても、夕方に神への感謝が湧き出したと思ったら、即認識変更がくるとはね。
あの時のエネルギーの流れは凄かったから、第三脳室で受け止めるのに無理があると感じたのは確か。
この認識の変更によって、音叉的な役割の中枢神経系を使いやすくなる可能性もある。
心臓が中枢神経系を使うっていう認識は面白いと思う。