神は全知全能なんだから、自分にとって何が良いのかもすべて分かっている。
という事は、非常に限られた存在であるエゴのレベルで目標設定したって、それが上手くいったとしても幸せになれるとは限らない。
というか、エゴの立てた目標が叶ったせいで不幸になっている人の方が多いのかも知れない。
これまでもその考えは知っていたけど、エゴが凄い反発していたんだよね。
目標を持ち達成するからこその素晴らしい人生だろ!みたいなね。
でも、それってもろエゴの主張だよなぁ。
目標も含めて丸投げするのが、本当の委ねるという事なんだろうと、やっと納得できた感じです。
だから、具体的なアファメーションとかも、真の幸せには足枷になる様な気がする。
「私は全てを神様に委ねます」っていうアファメーションとかが結構良いかもしれないね。
「私はなんて幸せなんだろう」っていうのもとても強力だけどね。
でも、そこにも何かエゴ的なニュアンスがある様な気がしてきた。
とは言え、神に丸投げって、本人が納得出来てないと、もの凄い抵抗感が出るから、神に全てを委ねることに納得できてない人には、「私は全てを神に委ねます」というアファメーションは不具合が出る可能性はあります。
具体的な内容を避けつつ、幸せな現実に意識を合わせるという意味では、やっぱ「私はなんて幸せなんだろう」というのが、絶妙なバランスの文章なのかもなぁというのは思います。
8割方は神に委ねてる感じの文章だしね。
話を戻します。
神に丸投げって、自己を無くすことじゃないか?と思うかも知れないけど、そういう事でも無いと思います。
主人を神に譲るだけで、エゴ自体がなくなる訳でも無い。
それにその時は、自己の位置が神の側に移動するし。
神そのものまでは行かないかも知れないけど、エゴの活動を客観的に眺めている観察者の位置にはいくからね。
そして神に丸投げしている状態の方が、現実がスムーズに動くことも理解しているということ。
エゴの邪魔が這い入る隙がなくなるからね。
だからって、何もしなくなる訳ではないですよ。
現実の流れの中で必要な事はやっていく。
ただし、エゴの意志は介在させないという事。
それがエゴの本来の役割なのでしょう。
それから、もう私は気功的な気の使い方をするのはやめました(笑)
気功的な気のコントロール自体がエゴだと気付いたので。
いまここに在れば、自ずと人間存在本来のエネルギーが溢れ出す事が分かりましたし。
気を感じる事は問題ありませんんから、気の感覚は放棄してませんよ。
気のコントロールをやめるだけです。
気のコントロールをやめることで、根源の気が溢れ出します。
そして溢れるに任せる。
気功を始めて30年目にして、気のコントロールを捨てることを学んだという。
気のコントロールを一切捨てるというのを受け入れるのはもの凄い抵抗ありましたよ。
今でも完全に抵抗感が消えている訳ではないし。
これまでの30年やってきたことの半分を捨てる訳ですからね。
気の感覚が感じられるだけで良かったんだというのも衝撃的だし。
でも30年は無意味じゃ無いと思う。
気の鍛錬をしてなければ「気のコントロールを捨てる事」は出来なかったからね。
そして今後は、根源の気の湧水ポイントで在る事になるのだろう。
もう既に垂れ流しっすよ(笑)
でもこれだと尽きることも無い感じだ。
すごい楽でもある。
自分が聖地であるというのが良く分かった。
移動式パワースポットって感じだ(笑)