氣を感じているというのは、いまに意識を合わせている事だと氣付いたと、この前書いたけど、いまに意識を合わせているのも、まだエゴレベルなんだと氣付いた。
氣を感じているという感覚自体がエゴレベルという事ですね。
氣が自分そのものという立ち位置になって、初めてエゴを超えるみたいだ。
ああこれか。。って。
これまでも、不意にこの感覚が訪れることはあったけど、不意にくるから、再現が出来なかった。
ああでもないこうでもないってやって、背後を意識してみたり、原子の隙間を意識してみたり、いまを意識してみたり、本当に数え切れない事を試してきた。
どれも正解であり不正解って事も理解出来た。
意識を、別のやり方にずらした瞬間に、あの領域を体感する事があるという事だったのだろう。
今回は氣が自己であるという認識の変更によって、立ち位置がシフトした。
でもこれも、この概念にとらわれすぎると、また元に戻ってしまうと思われる。
それはさておき、ここから振り返ると、氣の感覚を五感と同列に扱っていて、氣の感覚から意識を反らしていた時期って、非常にやばい状態だよね。
2年ほど前から先月までの話だけど。
それ以前は、いまをそれほど意識していなかったから、普通に氣の感覚を意識してたので、エゴレベルではあっても、氣と繋がっていたからね。
でもまあ、間違っていたお陰で、いまの在り方が理解出来たので、良しとする。
氣が自分って言う認識に今まで氣付いてなかったのも、ある意味衝撃ではあるけどさ。
宇宙と一体とか、自分が世界という感覚はあったのにね。
いまから振り返ると、宇宙を意識する時って、自分にはどうしても空間的に捉えてしまう癖があった。
空間のフレームでとらえるというか。。
でもそうじゃないと。
氣が自分という認識になったとたん、宇宙のとらえ方も変化する。
私が氣功師なので、氣が自分という感覚がしっくりきたということね。
スピリチュアル系の他の表現だと、ソース(源)が自分っていう感覚。
ソースと繋がろうとしている時点では、エゴレベルって事になります。
ほんま、身体の力みがめっちゃ緩む。
とろけるような感じ(笑)
結構、力みは抜けていると思っていたけど、抜けてなかったね。
認識ひとつでこうも変化するのかと。