昨日またガラッと感覚が変化した。
背後の感覚も視野の背後よりも更に広がっている。
背後地卯より、心臓辺りに虚空を感じている様な感覚で、そこから根源の氣が溢れ出してくる感覚。
根源の氣って、愛なんだなぁというのも感じている。
心臓から溢れ出す愛が身体を満たす事で、ポジティブな感情になるのだろうということも理解した。
ポジティブな感情になることで、愛が溢れ出すのだと思ってたけど、逆だった。
愛が溢れ出してくるからポジティブな感情になるという事。
心臓から愛が溢れ出す感覚無しで、喜びとか愛情とか感謝とか無理だとも思った。
源から愛が溢れ出す器が心臓だったというのも、なかなか氣づけなかった。
愛が溢れる場所を心というのなら、心は心臓にあると言えるのかも知れない。
この辺りの認識の変化も大きいかも。
心の定義の問題で、感情が心とか考えていたので、感情は脳だから、心も脳だという認識になっていた様な氣がする。
愛と愛情が違うという事とかも結構重要な認識で。
愛と愛情をイコールだと思っていたから、愛情も脳だから心は脳だという事になっていた。
心の定義によって、場所って変わってしまうから、もうこの際、心がどこにあるとか考えるだけ無駄だということも理解出来た。
人によって場所が違うのは、そもそも心の定義が人によって違うからね。
大事な事は、心臓から源の根源の氣である愛が湧き出しているという認識。
それはパワーでもある。
氣配は外界の氣の状態であって、それは被創造物。
根源の氣は創造そのものであり、愛でもあり、神でもあると。
それは、別の領域でもあり、いまここでもある。
また愛に満ちることで感謝の氣持ちが起きてくるという事。
色んなことが繋がった。
これまでも心臓から愛が溢れ出す感覚を得た事はあったけど、それは天地の氣を取り込んで、それが心臓から出る感覚に過ぎなかった。
それでもそれなりに良い波動ではあったけれども、心臓の内側から湧き出しているという認識は、今回が初めてだ。
それはさておき、心臓が神の座だという、極々ありふれた結論に至った訳だが、ものっすごい時間かかったな(笑)
いくつもの書物で読んでいたから、それは知識として知ってはいたけど、納得できてなかった。
それがやっと納得出来たという感じか。
書物の知識を素直に盲信できていたら、ここまで時間はかからなかっただろうけど、盲信だと色々具合が悪いんだよね。
記憶しているだけなのと、納得しているのとでは、全く違うからなぁ。