身体を通して創造するという考えがエゴのなせる技だと思っていたけど、そうでもないのかも知れない。
考えてみれば、身体じたいは天地自然そのものですしね。
エゴは身体の極表面に存在する思念体ですから、エゴを通して創造すると考えるなら、それは肥大化したエゴの考えだけど、身体を通して創造するという理解であれば、それは自然な在り方なのかな?と。
身体=エゴでは無いということでしたね。
身体は神の聖なる器だった。
それを忘れてしまっていた。
観察者の意識って、魂の意識じゃなく、身体そのもの意識なんだろう。
生まれたばかりの赤ちゃんにはエゴがないですよね。
その気配は当に天地自然そのものの在り方。
そこにエゴが乗っかっているのが大人なんだけど、エゴが自分みたいになってしまっているから問題になるだけで、エゴをどければ身体の意識は観察者の意識になるという感じか。
であるならば、身体を通して現実を創造するという理解で何の問題もないのでしょう。
まあ身体を通して創造する時にエゴを避けるのが、なかなか困難なので、様々な問題が生じているというのはあるのでしょうが。
多くの場合、身体=エゴという感じで活動してますからね。
大脳=エゴでもなく、大脳の大部分も観察者の意識なのに、エゴの影響力というのは強大なので、まるで大脳がエゴの座の様に錯覚してしまう。
個人的にはエゴは大脳ではなく小脳に形成されている様な気はしてますけどね。
小脳に形成されたエゴが大脳をコントロールしている様なね。
でも確証は一切ありませんので、信じないで下さいね。
考え方のひとつという事でお願いします。
それはさておき、腹で魂とリンクしているので、腹からそのまま創造エネルギーが身体に満ち溢れるような感じで扱えば、エゴの影響はあまり受けずに創造が可能な気もします。
やっぱ創造エネルギーで身体を満たす事も必要でしょうからね。
身体を通さないようにしていたら、めっさネガティブな気持ちになっていったし(笑)
こりゃあかんわと思って、身体に湧かす方向にシフトした次第です。
創造エネルギーは愛ですから、身体に流さないと愛が枯渇してしまい、ネガティブになるのは、今から思えば当然だったという。
身体を通して創造するという解釈でいけるというのはとても有り難いです。
モニターしながら創造するのみ、モニターに近い場所で創造するのは効率的でしょうしね。
創造エネルギーが多摩市とリンクしている腹から湧き出して、それを開放という流れになる訳ですが、そうすると心臓と脳梁が浮上してきます。
心臓で力に変換し脳梁から開放というパターンがどうしても気になるのでね。
まあ、エゴを通さず脳梁から開放というのは、なかなか何度高そうだけど、身体が神の聖なる器であるという認識を忘れず、観察者の意識を保てれば可能な気はします。