現実世界は自分の内面を映し出す鏡なのだから、現実を変えたければ内面を変える必要があります。
それで内観等を行ったりするわけですが、あまり突っ込んで内側とは何なのか?という事について考えていなかった気がしました。
自分の固定観念を探るのももちろん重要で、書き出して捨てる作業等で行ってきていますが、それも内面には違いなのだけど、観念的な内面ではなく、本当の内側ってもっと違うものなのではないのか?と思った訳です。
魂とのリンクを感じるというのはひとつの解ではあったのだけど、これまでやっていたのは、身体の内側にある魂とのリンクを感じることで魂からの創造エネルギーと繋がるという事でした。
でも、それもなんか限定的だよなぁと感じる様になりました。
もちろんそれだけでも相当エネルギーレベルは高まるのだけど、なんか違うという感じ。
それで、魂とのリンク場所から魂に入っていけば良いんじゃないの?と思ってやってみました。
ああ、これかもなぁというのが最初の印象。
身体の内側の魂とのリンクを感じただけどは、別世界という感じで。
認識がかなり変わりましたよ。
魂とのリンクから湧き出す創造エネルギーを身体に満たしたところで、そんなの誤差の範囲のエネルギー量でした。
あれほど凄いと感じた量が誤差の範囲とは驚きですが。
そして、本当の意味での「いまここ」の感覚は、魂に入ってはじめて入り口に入れた気がします。
これまで思っていた「いまここ」は「いまここ」じゃないと理解した。
五感で認識している世界は過去であると言うことは何度も書いていますが、それどころか身体そのものが過去の存在であると言うことを理解できました。
身体の内部の体感も自我も過去なんだと。
まあ自我が過去だというのは以前から認識はしてましたけど、内観の感覚まで過去なんだという認識は不足していた。
そうすると「いまここ」という事の認識も以前のものとは変化してきます。
内側が「いまここ」ではあるのだけど、その内側というのは、魂の在る場所、すなわち源(ソース)であるということ。
過去も未来も実在していなくて、在るのは「いま」だけだということ。
認識している現実世界は過去なんだけど、実在はしていないという意味ね。
別の表現をすれば、過去も未来も「いまここ」で起きているという感じになるのか。
過去も未来も無く「いま」しか存在しない。
永遠に「いま」が続いていく。
そして場所も「ここ」しか存在しないという事。
言葉にすると矛盾だらけなんだけど、それを経験すれば、何となく理解出来るのではないかと思います。
身体も過去であり、創造は「いま」起きているという事になってくるると、身体から創造エネルギーを開放して云々というのは、やはり間違っていたということを気づかされました。
ある意味では、自分が創造エネルギーそのものなので、わざわざ過去である身体を通して世界に干渉する必要もありませんからね。
別にしてもいいけどさ。
そして思ったのは、以前、「背後」の感覚で感じていたのは、この感覚が矮小化されたものだったという事。
わりと良いところまで近づいていたのだけど、固定観念が邪魔をして充分に感じる事が出来なかった様に思います。
「背後は時の比喩」という文章も書いてましたからね、昔やっていたアメブロやはてなブログの記事で。
ただ、いまの感覚からすると不完全過ぎる理解でした。
いまだって完全に理解出来ている訳ではなくて、入り口に立てた位の様な気はしていますが、それでもずいぶん進歩した。
取りあえず、「いまここ」に意識が合わさっていると、とても穏やかで心地よくて安心感のある感覚になります。
それを身体でも感じるのだけど、それが見かけ上、源(ソース)から身体に気が湧き出している様に感じるという事なのでしょう。
でも実際は身体に湧き出してきている訳ではないという事。
また、外界の気を取り込んでいる感覚も見かけ上でるけど、外界の気を取り込んでいる訳でも無い。
気が満ちている状態を創造してるというのが近い表現なのかな。
「現実世界は神である私達が観ている夢の様なもの」という言葉がありますが、そういう事なんだろうなと。
とは言え、夢を見たい通りに観れている訳ではないので、まだそのレベルにおいては、私はまだまだ初心者なんだという事も理解している(笑)
ただ、これまではこの言葉は、たぶんそうなんだろうなというレベルで認識していただけでした。
いわゆる「頭では分かっているけど。。」という状態だったのが、今回は腑に落ちたというか納得出来た感じですな。
この差は大きいです。