今朝もまた、寝起きに「いまここ」を意識していたら、「身体は結果」だという概念が湧いてきました。
そこから、身体に限らず、この現実世界は結果だよなぁという事を再認識しました。
現実世界が結果であることは知識としては知っていたけど、理解は出来ていなかった様な感じです。
身体も結果なら、身体も魂の一部というのはどう理解すれば良いのか?と思いました。
そこから理論が展開して、現実世界も魂の一部じゃないのか?という事に飛躍。
そして、魂の一部なんだけど、「結果」として存在しているのが、現実世界なのだろうと。
昨日書いた、身体は魂の現実世界への顕現という表現も、別の見方をすれば、結果と同義なんだよなと言うことも理解した。
そして、魂というより、それは意識の事だということ。
個人レベルの意識も、宇宙生統べる意識も同一のものであることも分かりました。
意識には区分けが無い様です。
その意識上に、個別化した固有の波動が魂で、そこから派生した現実世界を体験している身体に蓄積された想念体が自我であるということ。
なので、自我にどっぷり浸かっていても、意識は大いなる宇宙の意識と完全に同一なのでしょう。
ただし、自我にとらわれているから、ほとんど意識の本質に気づいていないという感じ。
意識と源(ソース)は同じものを別の角度で認識した状況だという事。
魂はその意識に生じる固有の波動であるので、宇宙を統べる意識にもっとも近い自己といえるかも知れない。
魂は個別化した神と表現される所以ですね。
そして、気が付けば、意識は、物理的現実からの見かけ上では、空間全体に拡がっている様に感じる。
見かけ上は、空間全体が意識なんだという事、それが真の自己でもある。
身体の中に意識があるのではなく、意識の中に世界がある。
世界は意識の結果である。
よくある例えに、思考が雲としたら、意識は空であるということ。
エゴが強い時は、雲を自分だと思っているけど、本当の自分は空である。
ある意味では意識は、「無」なのでしょうが、何も無いという事ではありません。
それは常に、自分と共に在った。
ただそれに気づいていなかっただけ。
身体も含めた現実世界は、魂の波動の結果という事。
なので、魂の一部という事は間違いではないけど、若干、ニュアンスは異なってきますね。
それで、身体を通して現実化を行うという解釈は、やはり違うという結論にはなりました。
身体も現実世界も魂の波動の結果ですから。
魂の波動が創造力そのものという事でもあるかも知れない。
魂の波動は、魂の精神活動によってある程度の幅はあるから、魂の想いに応じて現実も変化するし、その魂の想いは自我からの影響も受けるのでしょう。
完全に魂に任せれば、上手くいくのに、自我がしゃしゃり出てくるからおかしな事になる。
でも、魂レベルでは、自我が失敗しようが何の影響もないから、自我の好きな様にさせている節はありますね。
完全に委ねるには、自己の立ち位置を魂にシフトする必要があるけど、それは自我がもの凄く抵抗するから、その域に達している人は少ない。
多くの願望実現というのも、魂に委ねているという感じじゃなく、自我の想いを反映させている感じですし。
社会的にはそれでも大成功する事も多々あるのだけど、本当にそれがその人にとって、幸せな事なのか?というと、疑問は残ります。
それから、ことあるごとに、身体を通して現実化していると思いたがっていたのは、「現実世界は心の投影である」という言葉にとらわれていたからだと気づきました。
特に「心」という言葉の定義の影響でしょうね。
どうしても、心と言うと身体とか自我にまつわる精神活動とか感情の動きだとかいう思い込みがあったから、身体や身体周囲を基点に現実化を行うというモデルに引きずられていましたね。
でも、実際は、現実化を行っているのは意識であり魂の波動です。
それらは、身体の周囲に限定されているものではありません。
魂の波動だって意識に生じている波動なので、空間前提に遍く存在している訳です。
身体の周囲に在るだけではないという事。
魂の波動は、もしかしらた地球の周囲だけに限定されているかも知れないけど、それにしたって、見かけ上、魂は地球全体を覆っている訳ですからね。
凄く話が大きくなってきてますが、世界も魂の中にあるというのはそういう事でしょう。
物理次元を超えると、大きさという尺度が無意味なので、地球を覆うとかいうのも本当はニュアンスが違うのだけど、物理的現実に存在する身体からの見かけ上は、そういう事になるという感じと理解して下さい。
そして、それぞれの固有振動数の魂がそれぞれにフォーカスしている肉体というのが、自分の身体であるという事。
そういう意味では、リンクしているという解釈も完全な間違いではないのだけど、魂の一部であり、結果でもあるので、正解でもない。
それから、意識が、「いまここ」という事になると思います。
「いまここ」に意識を合わせるなんて表現してましたけど、「いまここ」が意識そのものだったという。
うまくはまると、空間全体が自分である感覚も得つつ、身体の感覚もある、なかなか興味深い意識状態になります。
この体感は、2008年以降、偶に何かのきっかけで不意に感じていた感覚なんだけど、自意図的には再現できなかったんですよね。
それが来るのを待つしか無かった感覚でした。
でも、それを意図的に再現できで、常に感じられる様になってきたのは嬉しい事です。
その状態になれたのが、結局は概念の変化だというのは興味深い。
修行とか訓練じゃないというのがね。
ある意味、固定観念の整理も修行っちゃ修行なんだけど、一般的なイメージの修行は一切やってないからなぁ。
世界は思い込みの産物であるというのが良く分かる出来事でもあります。