この辺の感覚も、ずいぶん忘れていたというか。
へそ、心臓、盆の窪から取り込む感じにしたら、心臓から湧き出してくる氣があって、それって愛だよなぁと。
何も分かっていなかった頃の方が素直にそれを愛だと理解していたのかも知れない。
心臓からエネルギーが溢れる感覚はあったのだけど、それを創造力の開放と称して、そのまま現実世界に放出していたのが、間違いだったという事なのだろう。
そうじゃないんだと。
そのエネルギーは愛そのもので、それは外界に放出するのではなく、自分の肉体を満たすこと。
そして外界に溢れ出すもの。
肉体を満たす事無く、そのまま外界に流すという行為は、自分を愛していない事と同義だった。
これは衝撃的な氣付きだった。
肉体に満ちて溢れ出していく分には何の問題もない。
それは何かをする事でもない。
ただただ全身から溢れていくだけ。
肉体の在り方はそんな感じでOKなのだろう。
創造は魂が行うのだしね。
自分の肉体に愛を注がず、外界に流していたから、肉体は愛が枯渇している感じだった。。
肉体に愛を満たしていけば、自然に安心感もやってくる。
安心感を感じて委ねりゃ、それで上手くいくと思われる。
根源の氣って愛そのもので、それが、、精(せい)、氣(き)、神(しん)の3つに分かれて肉体に取り込まれる。
へそ、心臓、盆の窪は、精(せい)、氣(き)、神(しん)に対応している感じ。
3つに分かれた内の精は精力と同義、氣は愛、神は智慧とかそんな感じね。
この辺はどう説明したらよいのか分かりにくいけど、そんな感じ。
氣だけでなく、精、神も肉体を満たして溢れ出す感じ。
肉体に感じては、「満ち溢れる」っていうのがポイントだったのだろうね。
強制的に放出するとか、それがエゴの産物でもあったと。
肉体で現実を創造するという誤解が、これまでの堂々巡りの原因だったのだと言うのは、何度も書いている通り。
それはさておき、へそ、心臓、盆の窪から、エネルギーが湧いてくる感覚は、とても氣持ちの良いものです。
そしてそれらが肉体を満たして外界に溢れ出していく。
それと、おそらく、盆の窪は小脳、へそは小腸に対応している感じなので、湧き出すポイントが、小腸、心臓、小脳という解釈に変わる可能性はあります。
でもまあ、大した差じゃないと思う。