昨日から頭の外で考えるのを復活させているのですが、色々気が付いたことがあります。
真っ先に気づいたのは、頭の外で考えているのをやめていた時の、自己の範囲がかなり狭かったなという事です。
以前、頭の外で考えていた時って、かなり自己の範囲が広かったのに、いつの間にやら範囲が相当狭くなっていた。
これは衝撃的でしたね。。
という事は、再び頭の外で考え出したけど、狭くなっていた癖が残っているので、空間全体つかえば良いのに、せいぜい自分の周囲2~3メートルくらいの範囲でやろうとしている事に気づいて再度驚く。
以前も多分せいぜい10メートルの範囲だった様な記憶だけど、それでも3~5倍の広さですからね。
まあ、今回は、10メートルの壁も突破して、認識している天球全体で考える様な感覚が出てきたので、外していた事の意味はあった様には思います。
宇宙が自分であり、宇宙で考える様な認識ですね。
認識している天球レベルの範囲なので、宇宙全体という訳ではないけど、そうとう広い範囲を使って考える様な体感になります。
でも、認識している天球って脳内の映像ですからね。
外の世界は内側でもあるという事。
脳内の映像の自分の身体の脳内で考えるだけだと範囲が狭すぎるという事でもある。
認識している天球の輪郭の外側まで拡大して考える感じにすると、本当の外側が分かるかも知れない。
でも本当の外側というのも内側なんだよね。
意味不明な表現だけど。
実際は、外側も内側もないのだし。
そういいつつも、言葉で表現すると、現実世界は自分の内側にあるという言い方をするしかなかったりもしますが。
心は身体の外側にあるというのも同じ様な事ですね。
現実世界が脳内の映像なんだから、体感的な身体の外側も脳内である。
心が脳にあるとして、外界も脳内なんだから、心も外界にあるともいえますわな。
理性的に考えると訳が分からなくなってきます。
だからこそ、考えるな、感じろ!という言葉があったります。
世界の全てが自分の内側にあるというのもそういう事でもあるのでしょう。
脳内にあるのだから、全部、既に持っている訳です(笑)
脳内云々というのは、まあ詭弁的なニュアンスもありますけど、要は全てが自分の内側で起きているという事でしょうな。
そういう意味では、外界は内面の投影という言葉だけは、若干、違う様な気もする。
その言葉が、内側と外側の分離を生み出してしまっている印象もあるし。
投影とかじゃなく、外側は内側そのものだという認識の方が正解の様なね。
神である私達の内側ってことなのだけどね。
別の表現をすると、身体の外が潜在意識そのものでもあるのかも知れないなとも思いました。
ここまでに述べた内容とやや矛盾する様な気もしないでもないですけど。
取りあえず、頭の外で考えることによって、自己の範囲が相当拡がるという事だけはいえる様です。
自分は身体の範囲に限定はされていませんからね。
だったら、徹底的に拡げるのありなんじゃないの?という感じです。
夢を見ている時の認識と同じ感じ。
夢の世界は自分の中に作られてますよね。
大地や空、建物、自分、他者、すべて自分が創り出してる。
全てが自分であるにも関わらず、夢の中の自分と他者は別の存在の様に感じます。
世界そものも自分で作っているのに、起きてくる現象を把握出来てなかったりするし。
現実世界も似た様なものなんでしょう。
夢の中の現実と、この現実世界は同じ様なものというのは、通常の記事にも書いてあった様な気もしますが、探すの大変だし、雑感だから重複してもいかな?という事で。