肉体内部を更にその内側から把握する感覚になるとき、自己の位置を第三脳室に置くのが良さそう。
過去にも何度も第三脳室を意識したことがあったけど、そもそも意識している時点でベクトルが逆だったという事が理解出来た。
氣付いていなかったが、これまで身体の内部のどこかを意識する時、身体の外側から内部を把握する認識だった。
身体の外側から内部を把握している時点で、それはもうエゴ視点でしかなかった。
エゴから、身体内部の聖なるポイントを把握するという視点。
エゴに基点を置いている時点で、直ぐに限界がくる訳だ。
意識を向けるベクトルがエゴから第三脳室になっているので、氣が逆流してしまうし。
そうではなく、第三脳室に意識の基点があり、そこから身体内部を感じ、更に外界を感じる事で、第三脳室から認識している現実世界全体に意識が拡がっていくのが、意識のベクトルの正しい方向みたいだ。
それとこの視点になって半日が過ぎて理解したのは、身体の内部は天地自然そのものであるが、その天地自然はこの現実世界のキャンバスであるということであって、神の意識とかそういう事ではなかったということ。
天地自然そのものの更に内側に神の意識の次元があるという感じか。
そして、身体と神の次元のリンクが第三脳室という認識。
神の次元は空間的な拡がりというのは無意味なので、大きさという概念も無い。
それは「いまここ」という事でもある。
で、また別の理解の感じとしては、個別化した神である私達の意識が第三脳室で身体とリンクするのだけど、それはある意味、身体をロボットとしたら、第三脳室がコクピットみたいなもんで、しかも登場人物はロボットと感覚が同化する様な仕様になっている感じ。
だから、いつのまにか肉体が本体の様な錯覚を起こすようになっていたという事。
それは肉体との同化が進み過ぎて、本体である個別化した神の意識が消えてしまう様な状態である。
肉体を、個別化した神が操縦しているのだという認識を思い出さないと、いつまで経っても同化したままになるという事。
私は昨日の朝それを思い出した。
それを自覚したまま、身体を感じ、更に外界を感じていくことで、意識のエネルギーが現実世界を満たしていく。
とにかく、ベクトルが逆のままだとどうしようないということ。
認識の変更というのは、こういう事だったのかと。
身体の更に内側から身体の内側を感じるという視点。
そして外界も感じるということ。
そうする事で、意識が拡がる。
感じることで、広がるというのもポイントであって、意識を拡げようとして外界に向けるのとは違います。
「いまここ」にいて、感受性を高めることで、遠くまで感じるという事。
それによって、意識が拡がっていく。