エゴが邪魔さえしなければ、現実はどんどんスムーズに流れていくのだけど、エゴが邪魔をしない様にするのって結構難しいものですよね。
しかも、エゴは邪魔をしているとは思っていないから、なかなか邪魔をしている事に気付けない。
願望を持ち続けることそのものが、願望が叶うのを邪魔しているという事実。
エゴ的には願望実現の為に頑張っているのに、それが邪魔をしているとは受け入れ難いでしょうし。
なぜ、願望を持ち続ける事が願望実現の邪魔になるかという事ですが、願望を持ち続けてるという事は、裏を返せば願いは叶っていないという主張をし続けているという事です。
ですから、その本心が現実化しますから、いつまで経っても願いは叶わないという状況になります。
そういう事もあるから、アファメーションとかは、既に願いが叶っている様な表現で行う訳です。
ただアファメーションって願いが叶っていたらやらないよね?という観点からすれば、アファメーションを行うことそのものも願望実現の邪魔になっている可能性はあります。
それでも、ネガティブに染まっている状態の時はアファメーションを行うことは非常に役に立ちますから、ある程度ポジティブになるまではアファメーションを行う事は役に立ちます。
それで、アファメーションの事も記事で紹介しているのですが、どこかの時点でアファメーションも止める必要はあると思います。
それがどの時点かは、人それぞれなので一概には言えませんし、アファメーションをやり続けて願望実現する人も沢山いますから、絶対に止めないとダメというものでもありませんが、「既に在る」という認識を持てる様になるには、やはりいつかはアファメーションも卒業した方が良いと思っています。
話を戻します。
願いが既に叶っているのなら、願いを叶える為の作業というのはやりませんから、願いを叶える為の作業そのものが現実化の邪魔をしてしまうという矛盾を起こしてしまう訳です。
そこを突破するのが、神に委ねるという気持ちと感謝の気持ちですね。
それは神への感謝の気持ちでもある。
結局、そこにいきつくのだなぁと。
補足しておきますと、これは何もしないという事ではありません。
技術向上の為の練習等、日常的に必要なことはちゃんとやる必要はあります。
願望実現の為の行動と技術向上の練習は、動作的には被る事はあるでしょうが、意図が違えば別の事です。
それはさておき、漠然と感謝しようとするより、神に感謝するという風に意識をした方が、感謝の気持ちも出やすいですしね。
ありがとう神様!って感じの軽めな位で丁度良いのかも。
「神様、ありがとうございます」とかだと、ちょっと固いかも。
となると唱えるのも「ありがとう神様!」が良いじゃないのか?とか思い直したり。
神は全てだから、自分も神の一部ですので、自分に対する感謝にも繋がります。
神の定義をその様にしていればの話ですけど。
神という存在の定義って、人によって違いすぎるから、神という表現を使いまくるのには、一定のリスクはあるんです。
それで源(ソース)という表現に置き換えたりしていたのだけど、神は神だよなぁという事で、神という表現に戻したというのは一昨日に雑感で書きました。
神道の神々のイメージが私の神のイメージに近いけど、同じでもない。
むしろ道教のタオがそれに近いのかも。
でも、神は神なので、神という表現にしてます。