昨日の体感はあくまでもエゴ視点の体験だったと気付きました。
今日も眩い光を感じていたら、不意に視点が入れ替わった。
自分が輝きそのものだったと分かった。
その自分がエゴを使って現実世界を体験しているんだね。
それは言葉としては以前から知っていたけど、分かって無かった。
時々、この立ち位置を感じる事はあったけど、エゴ視点からは完全には変わっていなかったのだなぁと。
そりゃ、この場所がどこにあるかも分かって無かったんだし、しゃあない(笑)
いまここの本当の意味はこれだろうな。
そこの至れたのは、気のコントロールを捨てた事も大きいと思う。
気のコントロールをしようとした瞬間にエゴ視点に戻るもの。
そもそもこの視点からだと気をコントロールする必要すら無いと。
ある意味では、自分が「気」だからね。
ああそういうことなんだなぁって。
気を感じるのは構わないというのは、この光を感じるってことではなく、現実世界の被創造物の気の波動を感じることだからです。
それをエゴを通して感じるのだけど、その場合は、この視点は維持出来る。
だから、エゴは受容に徹することが大切なんだろうね。
現実化をコントロールしようとすると、エゴ視点に引き戻されてしまう。
全ては既に在ると気付くだけで良さそうだね。
気付けば、最初からそこにいたという意味も分かった。
本当にずっといまここにいたのに、エゴが騒がしくて、自分のいる場所に気付けなかっただけだったという。