観察者の感覚を忘れてしまっていた
以前は、ごく当たり前に観察者の感覚を保っていたのに、いつの間にやら忘れ去っていた事に気が付いた。
後退していたのか?って感じですが。。
ただ以前の時は偶発的にきた感覚を何とか保っていた感じだったから、いつの間にか消えてしまって、そこから復活できなかったのだろうなぁと思う今日この頃。
そして今回、その状態に意図して持っていくことが出来るようになった。
これは進歩である。
この感覚が戻って来た途端、当時にやれていた事をたくさん思いだしてきた。
世界が自分だって感覚を思い出したよ。
だから、この空間そのものから氣を出したりすることも可能ということも思い出した。
2008年当時、それを普通にやっていたのに、いつのまにか、身体から氣を出す感じに後退してしまっていたからなぁ。
世界が自分というよりは、世界が自分の中にあるという方が正確かな。
だから、空間そのものが心でもあるので、任意の場所から氣を出す事も可能という事。
そしてそれをあたりめのように以前はやっていたはずなのに忘れていた。
思い出したら直ぐに使えたので、それ自体は大して難しい事では無い。
そういう発想が出来るかどうかってだけで、発想さえできれば直ぐに出来る。
それと、この感覚から展開させると、脳は思考を受信しているだけであるという結論に至る。
脳で思考を作っている訳ではないという事ですな。
空間そのものが心であり、それを脳で受信しているだけという事。
だから、心で考えるというのは、空間全体を使って考えるということ。
それを脳で受信すると、脳で考えている様に錯覚するのでしょう。
やっとそれが腑に落ちた。
この感覚は、夢の中の世界の様な感じですね。
夢を観ているとき、その舞台である世界も自分で作っているし、自分以外の登場人物も自分が創造している。
世界がまるごと自分ですよね。
にも関わらず、登場人物が話す言葉とか行動は、観るまで分からないという。
自分で創造しているのに。
現実世界も似た様なものだと。
自分で全部創造しているのに、次にどうなるか肉体レベルの意識では分からない感じ。
肉体感覚にフォーカスし過ぎているのだろうね。
肉体の役割というのは、自分が創造した世界を体験する事。
だから肉体は創造する為の器では無く、世界を感じ体験する為の器であるという事。
つまり肉体には現実を創造する力は無い。
そこを間違うと、色々苦しくなる。