私は、伊勢のラーメン屋の、五七屋さんが好きで月に何度も通っています。
そこの看板メニューのひとつ、通称「白」を初めて食べた時は衝撃を受ける程の美味さで、しばらく(2年弱ほど)そればかり食べてたのですが、その美味さに慣れてしまって、初めの頃ほどの感動が無くなっていたんですよね。
丁度、その頃から、月代わりの限定メニューというのが設定されたこともあり、それからは限定メニューばかり食べる様になっていました。
限定メニューもとても美味しいですし。
で、今日、久しぶりに「白」を食べたんですよ。
そしたらめっちゃ美味いと感じた訳です。
こんな美味いものを、さほどの感動もなく食べていたのか?という事に愕然としたというか。
めっちゃ美味いと感じていたものも、食べ続けているとそれが当たり前になって感動もなくなってしまうのだなぁと。
しかも、それが基準になるから、それ以前に美味いと感じていたものが、それほど美味しくない様になっていたりもしますよね。
それを舌が肥えるっていうのだろうけど、なんというか、それも良し悪しっていうかさ。
他の人が美味い美味いって言ってる店に行って食べても、なんか普通にしか感じない自分もいてさ。
美味いものを知っているという意味では幸せなことなんだろうけど、美味しいと感じられるものが少なくなるという意味では若干不幸なのかも知れないなぁとか。
まあ、幸いあの値段であんな美味いものが食べられる五七屋さんというお店が伊勢市内にある訳ですから、美味さに関してはそこで満たされれば良おとも言えますが。
金に糸目を付けなければ、いくらでも美味しいものは食べられるのでしょうが、そこまで食に金かけたくないし、1000円未満であんな美味いものが食べられるというのはコスパ最高だと思うから、わざわざ高い金だしてまで他のところに行く気もないし。
それはさておき、あんな美味いものにも慣れてしまって以前ほどの感動が無くなっていた事に衝撃を受けたのだけど、それって幸せに慣れてしまってそれが当たり前に感じて、退屈にすら思ってしまう状況と似ているなぁと思った。
無くして初めて氣付く幸せってヤツね。
当たり前の事が凄い事って分かっていても、慣れてしまうと感動は感じなくなってしまうのはしょうがないのかもなぁ。
感動できないものはしょうがないもんね。
無理矢理感動しようったって、それは偽の氣持ちだし。
例えば、美味さに慣れてしまって感動できてないのに、無理矢理「めっちゃ美味い!」と思おうたって、それは偽りだからね。
ただ、感動はできなくても感謝はできるということは分かった。
また、慣れただけで、当たり前のことが幸せなことだと理解することも可能だし。
そこさえ維持出来ていれば、慣れることを避ける必要もないのかな?とは思う。
人前に出るとあがってしまってた人が、人前に出るのを続けることで、上手くやれるようになったりするのも慣れるってことだもんな。
繰り返し経験することを、それは当たり前の事だと認識するのが慣れるという事なのだから、それは必要なことなんだし。