「いまここ」に意識を合わせているのは前提として、魂とのリンクが松果体ではないかという感じに落ち着いているのですが、では、心臓やへそには役割は無いのか?という事に思い巡らせていました。
これまであれだけ重要視していたのに、何の役割も無いというのは考えがたいですからね。
それで思ったのは、松果体が創造エネルギーの入力場所としたら、へそが放出場所ではなかろうかという事でした。
これは以前も考えた事があったけど、いつの間にかうやむやにしてしまったモデルです。
エネルギーの流入量が不足の時は、へそは締めておかないとエネルギーがダダ漏れになってしまうので、へそは意識しない方が良いかも知れないですが、流入が全開になってくると、へそを開放しないとエネルギーの動きが停滞するのかも知れません。
源(ソース)から松果体に流入し、へそから現実世界へ開放するという流れ。
電気で言えば、松果体が電源へつながるコードで、へそがアースの様なイメージか。
電源にだけコードを繋いでいても、アースが不十分だと電気は流れませんからね。
電気の例えに心臓を加えるならば、心臓はモーターの様な感じになるのでしょう。
松果体で源(ソース)に繋がり、へそを開放することで、心臓で発生する力が強まるという様な関係というモデルになりました。
現実化そのものは魂の役割なので、心臓で現実化する訳じゃ無いけど、心臓が活性化している時って、オーラが強く輝いているように見えるのでは無いかと思います。
それも在り方ですからね。
心が心臓に在るような体感になるのも、こういう事が理由なのかな?と。
結局、魂絡みで、松果体、心臓、へその3カ所の連携が必要という事になってしまいました。
以前とは、パーツは違うけど、3カ所ですな。
これも、三位一体という事でしょうかね。
このモデルなら、創造エネルギーが外界に溢れ出すのは、腹であるという、以前感じた体感も、全くの間違いだった訳でも無いという感じですね。
見かけ上は、腹から湧き出しているのはその通りなのだし。
流入場所が松果体だというのが違うけど。
心臓から何か力が出ているという感覚だって間違っていなかったという事になる。
それが何なのかの解釈が異なるだけですね。
まあ、その差はとてつもなく大きいのでしょうが。
それから、臍から開放するという事は、松果体からの流入量が少ない時に、仮に、へそを全開にしてしまっても、最低限度の創造エネルギーは腹部に確保できるという安全装置でもあります。
開放が会陰部とかだったら、すっからかんになりますからね(笑)
腸の位置までは創造エネルギーは抜けずに残りますから、小腸から吸収して全身に廻せるので、死なない程度には持ちこたえられるのでしょう。
流入量が少なくても、しばらくへそを閉じていれば、また満ちてきますからね。
流入量を増やす方向に転じれば、常時へそ全開でも大丈夫になるのだろうけど、これまでそういう概念が無かったから、へそのオンオフでエネルギーの保持量を調整するしかなかったという。
蓄えていたものを一気に開放し、へそのラインまでエネルギーが減るまでの間は無敵状態になる様な。
時間制限ありのハイパー化的なね。
そして制限時間が来たら、一気にへたり込んでしまうという。
でも流入を全開にできれば、ハイパー化状態が普通の状態になりますから、それは素晴らしい状態ですよね。
そういう状態で在る為には「いまここ」を意識することが絶対条件だと思います。
それが無いと、流入量はそれほど増えない気がします。
だから、「いまここ」を意識せずに、へそを開放すると、一時的には無敵状態になっても、それを維持する事は不可能でしょう。
それが、運気の良い悪いの並みが大きい人なのかも知れない。
へそを開放するという概念は知らなくても、腹式呼吸であったり、丹田を意識したりする事で、擬似的な状態にはなりますし、ここぞっていう時、腹に力を込める事を推奨する人が多いですから、無意識でへその開放をやっているのではないかと思います。
私自身も、へその開放という概念を知らなかったけど、「息を吐く時もお腹を膨らませる」という事をやってきていましたしね。
また、声を出して笑って居る時って、へそを開放している状態に似てますから、笑う門には福来たるというのも、そういう事でもあるのかも知れません。
ただし、「いまここ」を意識してないと、流入量が増えないので、時間制限付きの開放になるという事です。