肉体は自分ではないという表現をするとき、多くの場合は、本当の自分は肉体を越えた魂とかそういう意味合いで使うと思うけど、それだと肉体を低く見ているんだよなぁ。
私が言う時分は肉体では無いっていうのは、エゴというのは肉体ですらないというニュアンス。
以前にも書いているのだけど、肉体における自分というのは、思考や感情、動作、姿勢、姿くらいであって、身体の生命維持反応とかは、自分の範疇を超えてますよね。
内臓の働きとかさ。
それは完全に自然の働きそのものです。
自分と思っている自分は、肉体のごく表面的なものに過ぎないという事。
自分が肉体だと思っていると、肉体内部にまで、どっぷりエゴのエネルギーで浸食してしまい、不具合を起こす。
だから、肉体を神に明け渡すという様な意識は必要になるかも知れない。
身体の内部から自分をどける事が非常に重要になる。
自分が肉体内部からどけば、あとは天地自然がやってくれる感じか。
結局の所、チャクラから氣を取り込もうとかするのも邪魔でしかないということだろうね。
自分が肉体内部からどけばいいだけだったという。
ずいぶん前から、肉体も天地自然の一部と言っていたにも関わらず、つい先日まで、やれ小脳が、脳幹が、へそが、心臓がどうとか、仙骨がどうとか言っていた時点で、私も理解出来ていなかった。
身体の内部からどくだけで良かったということ。
即ち、身体の外側が自分なんだという事。
ただ、じゃあ身体のごく表面だけが自分なのかというとそうではなくって、世界が自分なんだって事にも氣が付いた。
身体より遙かに巨大なんだけど、その巨大な自分って、魂とか神の意識の自分では無くって、エゴレベルの自分なんだと言うことも。
ここで言う世界というのは天「地自然の表面に人間が創り出した環境」という定義です。
肉体の表面にエゴがある様に、天地自然の表面にエゴがあるという事です。
神の意識というのは天地自然、つまり宇宙の側なので、宇宙レベルの視点でみれば、エゴは本当にちっぽけなもの。
それが地球の表面全体だったとしてもね。
これまで、集合意識は神の側に近いと思っていたのが勘違いだった。
集合意識はエゴサイドということです。
神レベルの意識は肉体を挟んだエゴとは反対側の天地自然のサイドにある。
願望実現法とかで潜在意識と紹介される事が多い意識レベルは集合意識の事でエゴサイドなんじゃないのかな。
かと思えば、潜在意識を宇宙意識という表現する人もいたしりするから、潜在意識という言葉が説く人によって全然違うものを刺しているから、よく理解できない状況が多かったのかも知れない。
肉体内部は神そのものなので、遠くに神を求めるのでは無く、肉体内部に神が初めから在ると氣付けば良いだけだった。
その為には、自分が身体の内部からどく必要があるけど。
集合意識と宇宙意識(神意識)はベクトルが真逆だと理解できれば、世界に対する認識がずいぶん変わると思います。
言葉の定義は人それぞれなので、潜在意識という言葉が出てきても、それがどちらの意味で書かれているのか?という事にも注意を払って頂いて、その言葉にとらわれず、その人が潜在意識という言葉で、何を言いたいのかを理解する様にしてみてください。
私が委ねて下さいと言っている対象は神レベルの意識に対してであって、集合意識に対してではありません。
集合意識に委ねてしまうと流される。
まず、自分が肉体からどいてから、肉体内部を通して宇宙意識とつながって委ねるということ。
外側の集合意識に繋がって委ねる訳ではないという事。
集合意識はエゴの集合だと覚えておいてください。
集合意識にも凄い力はあるので、余計に誤解しやすい。
願望実現法の多くは集合意識を使っているでしょうしね。
それが別に悪いという事ではないですよ。
ただ、そのエゴによる願望実現の結果、地球の環境はこういうことになっているというだけの話。
でも、エゴの塊の集合意識だって、神の一部だからね。
それも含めて拒絶せずに受け入れるだけのこと。