愛に満ち溢れるとか一見素晴らしい事の様に感じるけど、これもエゴの巧妙な罠だった。
見事に騙された。
まあ、自分で自分を騙していたわけですが。
へそや心臓、盆の窪から氣を取り込むというのもエゴの抵抗。
少し前、全ては氣の波動であり、エネルギーそのものなのだから、そもそも氣を取り込む必要すら無いって書いていたのにね。
そして氣は愛そのものでもあるのだから、物質も含めて全てが愛から生じているもの。
つまり、愛そのものであるということ。
最初から世界は愛で満たされているのに、肉体に愛を満ち溢れさせるという事自体がおかしい訳だ。
肉体に愛を満ち溢れさせるためには、世界に満ちている愛をわざわざ遮断して、限られた場所(へそ、心臓、盆の窪)から、取り込んで溢れさせるという訳の分からない手段をとる必要がある。
これは愚か者のやることだ。
肉体も含めて世界は最初から愛に満ちていると認識すれば良いだけだという様な事を書いた事あったのになぁ。。
自己の他地域も魂どころか世界でいい。
世界というより時空のフレーム。
少なくとも、自分が認識している範囲が自分だという事。
肉体の半径90センチとかしょぼい範囲じゃない。
実際、私は、認識している世界の任意の場所から氣を出すことはできる(見えている範囲に限られるが)。
別に自分の身体から氣を出す必要なんてない。
これは10年以上前からできていること。
それができるということは、世界が自分の体ってことなんだよね。
なのに、それが結びつかなかった。
それと、肉体で氣を感じる訳でもないということ。
肉体を氣の変化のモニターとして使っているだけだった。
肉体感覚の変化を感じることで、周囲の現実の氣の状態を認識しているだけであって、肉体で氣を感じている訳ではなかった。
これもなぁ、分かっていたはずなのに、どこかで否定していた。
そうしないとエゴの立場がだだ下がりになるから。
エゴは少しでも上の立場になりたいので、氣の受信は肉体が行っていると思い込ませようとする。
まんまとそれに騙された。
だから、ちょっと前に書いた「魂で創造し、肉体で感じ体験する」っていうのも間違いだね。
「肉体で体験する」は合ってるけど。
魂で創造っていうのも間違いかも知れない。
もっと上位の自己だわ、たぶん。
おそらく、世界である自分が創造してるのだろうね。
ただ、魂の定義によって変わってくる。
仮に世界が魂という定義なら、その場合は魂が創造しているというのも間違いでは無いかも。
世界の提議もマチマチで。
単位地球の表面に広がっている場所を指すだけでは無く、時空を世界と定義することもできるもんな。
まあ、宇宙全体を認識することはできないので、認識出来る範囲の時空を世界と表現するのはアリかも知れない。
認識出来る範囲が自分なんだしね。
オーラの範囲が自分とか、くそ狭い。
人間存在というのは、そんな矮小な存在じゃ無いという事だ。
今日の氣付きは、ある意味、これまでの認識がひっくり返ったくらい衝撃的ではある。
ものっすごい氣の使い方の自由度が高まったし。
それはさておき、昨日の今日でここまで認識に隔絶があるのは、正直笑える。