今朝、寝起きで「いまここ」に意識を合わせていたら、不意に「身体も魂の一部」という言葉が湧いてきました。
なにそれ?と思ったのだけど、20年以上前に読んだ「バシャール」の書籍に、そういう感じの内容が書いてあった事を思い出しました。
つまり、魂の物理的現実世界への顕現が身体という事ですよね。
なんか、腑に落ちたというか、そういう事なのかも知れないなと。
これは、魂とのリンク云々という考え方が吹き飛んだ瞬間でした。
身体も魂であるなら、リンクがどうこうっていう考え自体ナンセンスだったという事ですからね。
リンクがどこかと探っているのは、魂と身体は別のものだという前提です。
魂と身体の主従逆転とかいう最近での最大の気付きすら吹っ飛んだ。
魂と身体は同じものなのだから、主従もくそもないですもんね。
私自身、「身体は神の聖なる器」という表現を好んで使っていましたし、身体の内部は天地自然そのものだという事も書いたりしていたくせに、その本当の意味合いを理解していなかったという事のようです。
天地自然と魂を分けていた訳ですしね。
「全ては一体である」と言いながら、「一体」の意味も誤解していたのかも知れない。
身体も含めて全ては高エネルギーの海のさざ波の様なもので、バラバラでは無い事も知っていたのに、分かっていなかった感じか。
これって、別の表現をすれば、身体も魂の一部であるという事になるのに、そこに思い至っていないというのが迂闊すぎる。
それぞれの部分を意識しているとき、それぞれの事はある程度理解出来ていたのだろうけど、それら全てを包括して理解は出来ていなかったのでしょうな。
身体は魂の一部なので、魂全体ではないけれども、この物理的現実世界においては、身体を通して現実化を行っているという解釈でも問題ないという事になる。
以前は、身体を通して現実化を行っていると考えるのは、肥大化したエゴによる傲慢な考えだと思っていたけど、そうでもないのかも知れない。
ただし、身体に対する解釈が変化していればという注釈付きになるけど。
以前は、身体の所属はエゴだったけど、今回の概念だと身体の所属は魂だからね。
ここは大事。
魂の一部で在る身体の表面にエゴがへばりついているというのが人間という事なんだろうな。
これまでの解釈は身体は魂とは別の物で身体の精神活動はエゴだという認識だったみたいです。
この変化は大きい。
身体は魂の一部だと理解した瞬間から、かなりエネルギーレベル高まってます。
昨日、松果体で魂とリンクすると解釈して、アレでも相当エネルギーレベル高まったと思ったけど、今のエネルギー量を柿田川湧水群の湧水とすれば、昨日のエネルギー量が水道の蛇口からチョロチョロ流れる細い水の流れレベルに感じる様な。
だとすれば、一昨日までのエネルギーレベルは、ぽたぽた落ちる水滴レベルでしょうか。
概念の変化一つでこれほどエネルギーレベルが変化するのは驚きです。
現実世界は自分の思い込み通りに振る舞っているというのは、こういう事なんだろうね。
思い込みって、エゴの産物だけど、エゴが要らんことしなければ、本来、人間はもの凄い力を持っているという事でもあるのでしょう。
だから、エゴは横にどけて、全て委ねましょうっていう話なので、そういう主張をしているのに、この有様だった(笑)
20年以上前に、この概念を本で読んで知っていたのに、それを理解するのに20年以上かってしまった訳です。
でもまあ、知識として知っているのではなく、今回、体感として理解したので、それで良しとします。