目標を持ちそれに向かうことが良しとされている現代社会では、目標が邪魔とか書くと、めっちゃ反感買いそうですが。
でも、いまに生きる事を選択するなら、目標そのものが「いま」から目をそらす悪手であると理解出来ると思います。
目標を持ち続けるという事が、「いま」から目をそらし続ける事と同義なんですよねぇ。。
最高の現実は、今に在ることで具現化されるので、目標を持つという事は最高の現実を妨げるという事でもある訳です。
目標もエゴの産物という訳ですね。
目標を捨て、良い気分で、すべてを委ねる事が大切なのでしょうね。
でも、目標を捨てるって、もの凄い恐怖感が出てくるのも事実。
それで目標に向かって行動し続けようとする人が多い。
目標に向かって頑張っている間は、恐怖を無視できますからね。
目標を捨て居るという事は、エゴを主役から引きずり下ろすという事でもあるから、そりゃエゴは抵抗します。
エゴは自分が一番でないと気が済まない存在ですから。
エゴそのものが悪い訳じゃないのですよ。
エゴが主役になっているからおかしくなっているだけなので。
真我が主役でエゴを従として使うなら、エゴはとても役に立つものです。
その状態なら、物事はとても上手く流れていくでしょう。
その為には、まず目標を持つのを止めること。
そしていまに生きること。
エゴは、過去か未来にしか存在してないですからね。
エゴが主役である限り、「いま」にはいられない。
目標を持つ事で、巧みに「いま」から目をそらし続けている。
でも、本当は「いま」しか存在していないのに。
「いま」しか存在していないのに、「いま」から目をそらし続けているという事は、現実と上手くシンクロなんてできるはずもなく。
目標を捨てて、どうやって生活していくんだ!って思う人も多いだろうけど、「いま」に意識を合わせていれば、自ずと今やることは示されるものです。
都度、湧いてきた欲求に従うことも含めてですね。
欲求と目標は違いますから。
ただ、注意しないといけないのは、エゴまみれだと湧いてきた欲求を間違った解釈してしまって、自滅行為や犯罪行為に進んでしまう事もあるという事。
なので、ある程度、自己観察をして観念をクリーニングしていないと、欲求にそのまま従うのも好ましくない事もあるから、ただただ欲求に従えば良いってものでもない事は理解しておく必要はあります。
まあ、私自身、20歳過ぎから書き出して捨てる作業をやってきて、今47歳で、やっと、目標を捨てる事というのがどういう意味なのかが、やっと理解できてきたという体たらくですから、偉そうな事は言えませんがね(笑)
「委ねる」とかも、20年も前から言い続けているのに、エゴに都合の良い解釈しかしてこなかったしさ。
「目標を設定して後は宇宙に委ねる」的な事、たぶん、まだこのブログの記事にも書いて残ってる。
この解釈そのものがエゴの抵抗ですわ。
目標設定している時点で委ねてねぇって(笑)
近いうちに記事を修正しないとね。
それと、目標と計画は微妙に違いますからね。
何かをしようという欲求が出て、その為の計画をすることは、欲求の範疇ですから、それは構わないと思います。
旅行行きたい!って思ったら、宿取ったり、交通手段を決めたりとか、そういう計画は必要ですからね。
社会的な行動でも都度、必要に応じて計画を立てる事は必要でしょうし。
その線引きは微妙ではあるから、計画が目標化してしまう事もあるでしょうが、まあそれは気が付いたら軌道修正すれば良し。
欲求に基づいて計画を立てるのか、目標に向かって計画を立てるのかの違いでしょうかね。
ほんと微妙だけど、やってりゃそのうち分かる様になると思います。
細かいことは適当でいいから、とにかく「いまに在る」ことです。
そこがぶれてなければ、自ずと収まるべき所に収まっていく。
とは言え、その「いまに在る」ことでさえ、解釈が違うと別物になったりしますしね。
そもそも今の私の理解で合っているかどうかも分からないけど。
一昨日と今日で、まったく解釈が変化しているし。
それでも、いまに在ることを意識しているから、真実に近づいて来ているのは何となく分かる。
いまに在ることのひとつの目安は、安心感ですね。
逆に言えば、安心感が出てないなら、いまには居ないという事。
現実は、在り方によって具現化されますから、安心感が出ている事で、安心感を感じる現実を体験するということです。