2005年当時って、頭の外で考えたり想像したりする感覚の全盛期だった事も思い出した。
最近、その感覚を忘れていた様な気もする。
頭の外で考えるというのは、認識している空間全体で考える感じの心持ちにする事です。
創造も空間で行います。
それをやらなくなったのって、「認識している世界は過去の映像だから、認識している空間で考えると過去で考えることになる」という風に考える様になってからだろうな。
それで認識している映像の奥とかややこしいことやりだして訳が分からなくなったというか。
突き詰めて考え過ぎなんだろうね。
もっと気楽に頭の外で考えればいいだけだった。
頭の外っていったって、認識している映像って脳内の映像だから、脳内で考えているのには違いないんだけどね。
ただそうであっても、認識上の頭の外で考えるというのがミソという事。
そうじゃないと認識上の頭の中で考えるだけだもんな。
それとこれは実体験なんだけど、頭の外で作っているイメージは、気の感覚の分かる人にはそのイメージを感じる事ができるからね。
だいぶ前の話だけど、気の感覚の分かる人の手のひらを、頭の外でイメージした光の触手でつついたら、つつかれた感覚が伝わりましたからね。
イメージが他者に作用する証左です。
そんな体験までしているのに、頭の外で考えるのをやめてしまったのも大きなミスだよなぁ。
思い出せて良かったよ。
霊的な中心で考えるとかいう感じで、中心とか焦点とかにとらわれ過ぎるようになっていたのだろうな。
心臓辺りとか脳幹辺りで考えてみたりさ。
認識している映像そのものは過去だけど、体感的な身体の外が過去って訳じゃないのに。
認識出来てないだけで、いまという瞬間も身体の外側にも拡がっているのだから、頭の外で普通に考えたり想像したりすりゃいいだけのことだった。