自分らしさを求めて、人と違う事をしようとすると泥沼にはまる
自分らしさを求めて、人と違う事をしようとする人が結構いますよね。
でも、人と違う事を求めるのは、自分らしさを求めることとは意味が違います。
何が違うのかと言いますと、人と違う事というのは他人や世間が基準であり、単に、世間的な基準に反発しているだけで、自分の本心が基準になっていないのです。
世間的な基準にとらわれているという意味において、世間体ばかり氣にする人と大して変わらないのです。
確かに人とは違うのだろうけど、それは自分らしい事とは違うのです。
人と違う事やるというのは世間の基準にとらわれている
世間体ばかり氣にする人達と同じ様になるのが嫌で人と違うことを目指したのに、根本的なところは同じだということに氣付いたらショックかも知れませんし、認めない人も多いでしょう。
でも同じなんです。
そこを受け入れないと、自分らしい生き方は始まりません。
自分らしい生き方をした結果、人と違う生き方になるかも知れないし、見かけ上は人と同じ様な生き方になるかも知れない。
でも、自分を基準にした生き方をしていれば、見かけ上、人と同じ様な事している様に見えても、何かが違うものです。
それに、自分が望む生き方をしていて幸せなので、人と同じかどうかなんて事は、氣にならないものです。
それが本当の意味での個性です。
ところが「人と違うこと」にこだわっている人は、「自分」が抜けて居ますから、個性とは言えないのです。
他者が基準ですから、人と同じ様なことをすることが耐えられないし、他者と違うかどうかが氣になって仕方がなくなります。
そこに自分らしさは、存在しません。
奇抜なだけで、根本的なところは、世間体ばかり氣にする人と同じなのです。
世間に反発しているだけでは何も変わらない
非行に走る子供達も似た様なものです。
単に反発しているだけで、世間的な基準にとらわれているのは同じですね。
もっと視野を広げないと、何も変わりません。
自分らしさが基準になっていれば、いちいち世間的な基準に反発する氣にもなりません。
べつにそれは世間に飼い慣らされている訳ではないのですよ。
反発しているだけの人間なんて何の魅力もありません。
自分のやりたいようにやっている結果、世間的な基準に合致するかも知れないし、合致しないかも知れない。
でも、そんなことどうでも良いことなんです。
世間が氣になって仕方がないのは、自分らしさが基準ではなく、人と違うことが基準になっているからです。
自分らしく生きていれば、人と似た様なことをしていてもオリジナリティがでてくるもの
より良い人生を送るために、自分に課する品行等の基準はあると思いますが、それを「世間に迎合している」と言われようが氣になりません。
自分らしい生き方をしていれば、世間的な基準を可能な範囲で守ることは、別に自分らしさの否定にはならないのです。
奇抜な生き方をしていると、世間的な基準に従う事が負けた様な氣になるのでしょうが、それは自分らしく生きてないからです。
世間の基準に反発して、人と違う生き方をしたところで、世間の基準にとらわれている事には変わりありませんから、全く自分らしい生き方ではないのです。
そこのところを誤解している人が多い様な氣がします。
自分らしさが基準であれば、人と同じだろうが、人と違おうが、そんなことは些細なことなのです。
ですから、自分と向き合って、自分がどの様な人間で在りたいのかを探って行く必要はあります。
直ぐに答えは見つからないかも知れないが
すぐに完全な答えは見つからない事の方が多いですが、それでもちゃんと自分と向き合っていれば、ある程度の方向性は見えてくるものです。
その流れに沿っていく過程で、より具体的なものが見えてきます。
それを判断するのは自分の感覚です。
だからこそ、日々感性を研ぎすませていることが大切なのです。
漠然と生きていれば、兆しを見逃してしまいますからね。
感受性を高めるサポートに、ヒーリングは役に立ちますので、ご検討下さい。