内面の怒りや不安、その他、諸々の感情とか、醜い想いなどは、かなり認めて受け入れてきたのに、どうも狂氣だけはなかった事にしていたらしいと氣が付いた。
思い返してみれば、たぶん30代前半頃まではちゃんと自分の内面の狂氣を認めて受け入れていたし、特に隠してもいなかった。
でもそれで絶妙なバランスがとれていたんだよな。
自分の狂氣を思い出して、とてもパワフルな感覚になっていますよ、いま。
狂氣って凄く力があるし、それはそれぞれの人が持つ怖さでもありますよね。
本当に魅力ある人って、ある種の怖さも纏っているんです。
優しいけど、どこか怖さもある人って、本当に素敵ですからね。
優しいだけの人なんて、単に良いだけの人ですし。
その怖さというのは、自然に対する畏敬の念に通じるものがあるというか。
自然って優しいだけじゃないですよね。
例えば、深夜の森で一人で寝た事ありますけど、本当に怖い。
でも怖いからこそ魅力がある。
人の狂氣というのは、別に狂っているという意味合いだけの事ではなくって、常軌を逸しているという意味合いの方が強いです。
常軌を逸しているからこそ、常識的に不可能だとされる事をあっさり実現してしまったりしするものです。
常識に縛られまくった人って、魅力無いっすもんねぇ。
真に自由な発想をしようと思えば、自分の内面の狂氣を無視したらいかんわな。
狂氣のみになるのがまずいのであって、狂氣を纏っているのは全然問題ないということ。
狂氣を抑え込むと、本当の力も出せなくなる。
世間から外れた思考か行動を狂氣と呼ぶ事も多いけど、そもそも世間の常識の方が、宇宙の真理からすれば、狂っている可能性も有るわけですよね。
狂った側が多数派だと、多数派の方を正しいとされてしまうという事でもある。
世間的に狂氣とされている事が、実は真理であるのではなかろうか。